石炭の値打ち

1977年にBBCのドラマシリーズ「Play For Today」で二週に渡って放送されたバリー・ハインズ脚本、ケン・ローチ監督作品を、特集上映「サム・フリークス Vol.27」にて観賞。「ケン・ローチ、トニー・ガーネット、また彼らの脚本家たちも、労働党労働組合が労働者たちにやろうとしていることについて何らの幻想も抱いていなかった。(略)バリー・ハインズが二部作として書いた『石炭の値段』は、労働運動の英雄として鉱山労働者たちを擁護していたが、そのメッセージは、「エリザベス女王在位二十五周年を記念する」祝賀年のなかで十分に聞き入れられなかった」との『ケン・ローチ 映画作家が自身を語る』の(グレアム・フラーの)文章の意味が、ようやく僅かながら理解できた。


朝には家の畑から「バラ」を切ってくるシド(ボビー・ナット)は、炭鉱入口の看板に書かれたラテン語を読んで仲間に不思議がられる。「息子のトミーが学校で習ったから」「そんなに頭がいいのに坑夫になったのか」「今は他に仕事もないしな」。前日『パスト ライブス』を見た私としては、ユ・テオの両親は70年代に坑夫と看護師としてドイツに渡った、貧しかった当時の韓国では大学を出た者も炭鉱労働者と偽ってまで渡独したものだという話が頭に浮かびもしたけれど、ここはここ、予期せぬ雨のなか傘でない傘で帰る大変ローチらしい場面にも表れているが、土地の者みなが炭鉱の人間であるという特徴を強く受け止めた。一部二部ともに、作品の終わりには撮影に協力してくれた鉱山労働者と家族への謝辞がある(一部ラストの子ども達は、何を言われてどのような認識で参加したんだろう?)。

第一部は皇太子の視察を控えてのドタバタコメディの様相だが、まずは冒頭に描かれた会議が参加した労働者の意見を聞くものではなく上位下達であったことのおかしさが訴えられる。うちなら通るからと甘く見られて選ばれたんだ、あっちならそうはいかないとのシドの言葉に仲間はあっちの上層部は共産主義者だからと偏見を述べる。間に合わせに草木を植えたり白いペンキを塗ったりと本来の仕事ではない作業に追われる坑夫たち。草が生えて来たか這いつくばって確認する経営陣をダチョウかよと笑っていたのが、第二部で坑道を膝をついてゆく仲間達の姿の後には違う意味を持って蘇る。

お金ももらえれば結果的に自分達の環境も向上するんだからいいじゃないかという意見に作品は異を唱え続ける。坑道内で皇太子がおしっこしたくなったら我慢してもらうしかない、すなわち、おれたちはその辺で用を足すが、トイレがないということが、全てがそもそも変なのだと。釣りに行きたがる息子にシドが言う「皇太子が釣りをしたいとなれば皆が魚を用意する、土地の者が行っても釣れるか分からない、本来その魚は土地の皆のものなのに」を受けてのラストシーンが鮮烈。

第二部で崩落事故について話す坑夫の「人命より石炭に価値を置く悪しき伝統」に、『1945年の精神(The Spirit of '45)』(2013)でも同じような言葉を聞いたなと思い出し帰宅後に見てみた。

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  • クレメント・アトリー(当時の労働党党首、首相)
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このドキュメンタリーでそう語られるのは第二次世界大戦前の炭鉱についてである。落盤を防いでも賃金は出ない(だから誰もそんな仕事はしない)、仲間は死んだ、鉱山所有者は皆暴君だった、王族もいたと。しかし鉱山国有化の後も思ったようではなかった、システムは中央集権的で石炭庁による経営は民間と同じく上位下達、労働者の意見を聞くなどという考えは無かったと話が続く。本作の第一部でシドが訴えることと同じだ。しかも何十年後でも人命は軽視されているときた。

第二部を見ながら思い出していたのはローチのこの(彼の思想からして当たり前の)言葉。

(『ケス』の主人公ビリーについて)映画を見た人々は「彼は動物園で仕事を得ることができなかったのかい?」ということを私たちに言ったが、それは完全に論点を見落としている。なぜなら、もし単純労働として利用されるのがビリーでないなら、そうした境遇にいるほかの誰かになるからだ。世界はそうした任務を満たすために、彼や彼のような人々を必要としているんだ。(グレアム・フラー『ケン・ローチ 映画作家が自身を語る』)

これは崩落事故に遭った(一応の主人公である)シドに助かってほしいと願いながら見るものじゃない、そう願えないことに憤りながら見るものだ。そのままである限り誰かが死ぬんだから。第一部では滑稽に見えた白い窓枠や明るい花が、第二部では炭鉱の人々と決してそうならない人間との境界、それが放って置かれていることを表しているようであまりに空しく映った。