労働者の日記



アキ・カウリスマキが愛するフィンランドの映画」にて観賞。1967年、リスト・ヤルヴァ監督作品。アキ映画でお馴染みエリナ・サロの若かりし頃が見られてまず感動。


始めのうち、丁度一年前に「ケン・ローチ初期傑作集」で見た「キャシー・カム・ホーム」(1966/感想)の続きかと思ってしまった(笑)全然違うと言えば違う(しあっちの方が出来がいい)んだけど、冒頭、グラフや間取り図なんかに「男性の労働時間は八時間半、女性は八時間、男性の睡眠時間は八時間、女性は八時間半、家事労働時間は女性が四時間、男性は二時間以下」なんてナレーションが入るもんだから。この映画でのこの意味合いは、私には、調査の結果を元に「男」と「女」が違うと言われれば、「男」と「女」の「結婚」を取り上げることに意味があると考えられる点だ。


映画は四章に分かれており、順に「結婚式」「ユハニ(男):人はパンのみに生きるにあらず」「リトヴァ(女):人は愛のみに生きるにあらず」「ユハニとリトヴァ」。結婚式を終え、缶からが二つ着いた程度の車で帰宅する。女が「ケーキが甘すぎた、口直ししましょう」とパンに何かを塗りトマトを切ると、男は食卓にのせる前に食べ始める。「ケーキが甘い」のはなぜか、食べる者のせいなのか、あてがう側のせいなのか、それとも人間には「合う甘さ」とでもいうものがあるのか、とふと考えた。


序盤に二人が訪ねる叔父夫婦の家の瀟洒な室内のテレビから延々と流れてくるニュースは、決して背景ではなく、遠い所の出来事を無視することは今や出来ないという主張のよう。文化大革命の話題には、アキの「マッチ工場の少女」で作中最初に聞こえる人の声がテレビから流れる天安門事件のニュースだったことを思い出した。一方終盤、帰らない夫を待ちのびきったマカロニを口にする妻が眺める、世界中の話題が伺えるが映らないテレビは、「よそ」があっても自分には「ここ」しかないという絶望の表れのよう。


「翌朝の職場の様子は自分の理解を超えていた」(仲間が重傷を負ったのに何事もなかったようだった)には私も衝撃を受けたけれど、打ちのめされたのは妻の「なぜ私と結婚したの」。「なぜ『私と』」と言いたいんじゃない。労働者の生活において、男と女が性的にくっつくことが時をやり過ごす一つの方法のようになっていやしないかという恐怖を感じた。二人の、あるいは他の誰かとの「性的な時」に流れる「時の経つ音」はそれを表しているのかもしれない。アキの「パラダイスの夕暮れ」の、「労働者」の二人が愛し合い旅立つラストシーンを思った。あれは愛が先に立つ、あらまほしき姿の提示だ。