枯れ葉


フィンランド映画祭の先行上映にて観賞。

ホラッパ(ユッシ・バタネン)がポケットから落としたアンサ(アルマ・ポウスティ)の電話番号が風に舞うカットに近くの席で小さな悲鳴があがったのがとてもしっくりきた。なぜならアキ映画は、とりわけ本作がその続きだという労働者三部作『パラダイスの夕暮れ』『真夜中の虹』『マッチ工場の少女』は労働はくそだが愛があれば何とかなる(『マッチ工場の少女』のカティ・オウティネンの場合はそのような世界で裏切られ愛のない奴らを殺し自らは退場する)という話であり、これもそうならば、あれはその第一にして最大の危機だから。

80年代からのアキ映画のお約束「タバコのやりとりで心が通じ合う」は今となっては皆がタバコを好きとは限らないよなと思われるのを避けられないわけだけど、ここではタバコの共有は無い。代わりにホラッパがこれまでの作品にないほど酒を飲む。いわく「うつだから飲む、飲むからうつになる」。驚くような場面もあり困惑していたら、これはアルコール依存症を克服する話なのだった。そのアプローチには批判もあろうけど、これまでぼかされていた部分に光が当てられたことに感じ入った(正確には『浮き雲』に更生施設がちらと出てくるが)。アンサがホラッパのために買ったシャンパンを注ぐ時の陽気に軽くはじける音、アキ映画であんな音を聞くと思っていなかった。

犬と女が前をゆき「治癒途中」の男があとをゆくラストシーンもこれまでのアキ映画にはないもの。『パラダイスの夕暮れ』でマッティ・ペロンパーが自身の気持ちを再確認し行動を変えるきっかけとなるLL教室の例文にあたるのが、こちらではこれまたアキ映画初の女性バンド(デュオというべきか)Maustetytotの『Syntynyt suruun, ja puettu pettymyksin(悲しみに生まれ、失望を身にまとう)』。「自分のために生きる」との歌を聞いて帰ったホラッパはホステルの流しに酒を捨て割れていない鏡に自分を映す。このくだりは後に彼が退院する際「出て行った夫の服」を渡す女性の「鍵も変えたし」に繋がっている。男はもう「恋」でなく「女性」を見ている。

『マッチ工場の少女』の天安門事件、『希望のかなた』のアレッポ爆撃(役名は異なるが本作では『希望のかなた』で難民申請を却下されたシェルワン・ハジがちゃんとヘルシンキに暮らしている)に続いて本作ではロシアのウクライナ侵攻のニュースが、片時も忘れるなとばかりに何度も繰り返される。当初ラジオのそれを音楽に変えてしまうアンサが終盤二人でいる時に初めて「酷い話だ」と口にするのは、愛があってこそ人は酷い出来事に向かい合えるという意味だろう。かようにアキ映画には常に、愛とめぐりあえなきゃ、あるいは興味がなきゃどうすればいいのかという疑問がつきまとうわけだけど、それは逆で、こんな世の中には愛が必要だと言っているんだろう。加えてここで見ているのはアキにとって映画で描かれるにふさわしい狭義の愛で、広義の愛があり得るとまで考えたい。あるいは単に、「おとぎ話とはそういうもの」か。