わたしの叔父さん


冒頭の一幕、それまで半ば隠されていたクリス(イェデ・スナゴー)の顔が初めてはっきり映るのはトラクターの運転席から叔父さんを見る時。朝から視線を合わせることもなく互いにやることをやっている相手への、「心配でたまらない」という瞳が映画の後もなお心に残る。それゆえ、あらすじだけ聞いたなら歯痒くてたまらなくなるようなこの物語が、私には、彼女は今、やりたいことをしているのだというふうに思われた。

クリスと叔父さんは最初から最後まで常に違うものを食べている。それが彼らにとっての共生である(レストランでも、気を遣って彼女に合わせるマイクに対し二人は別々のメニューを注文する)。日々めいめいの仕事をめいめいでこなす彼らの作中初めての共同作業が大きな布を畳むことというのもいい。ちょっとしたことだけど二人いないとうまくいかないものの最たる例だもの。ついでにふざけることだってそう。

クリスが獣医と近所の家の豚を見に行く際、方向指示器の音と共に車が本道に出るワンカットにぐっときた。現実でも映画でも、幹線道路や本道は外へ繋がっている。そこそこの田舎に育った私にとって、子どもの頃、両親の車に乗って聞くあの音は、一つ聞く度、すなわち一つ曲がる度に外へ出てゆくんだという期待を煽るものだった。でも同時に戻ってくることのしるしでもある。この「戻ってくる」乗り物を最近他の映画でも見たなと思い出してみれば「詩人の恋」の済州島のバスだった。

常時流れているテレビのニュースには、カウリスマキの「希望のかなた」を見た時、天安門事件のニュースで幕開けすると言ってもいい「マッチ工場の少女」で自分達と同じく存在していると確認していた世界が「ここ」までやって来たのだと考えたのを思い出したものだけど、本作ではニュースは端的に「外」の象徴である。映画の終わりにテレビが壊れるのは、二人が外から完全に絶たれたことのしるし。でもずっと絶たれたままということはないし、崩れたバランスがどうなるかは分からない。かりに日本の話なら、学び直しの際のお金の問題などが念頭にあるだけにそうなれないかもしれないけど、私としては明るい気持ちでエンドクレジットを眺めた。