アクトレス 女たちの舞台



オープニングは揺れる列車の中で電話を受けているクリステン・スチュワート。この冒頭の列車の場面が長いのが嬉しい。クリステンがコーヒーとキットカットを手に客室に戻り、googleがどうのとニュースを話題にするジュリエット・ビノシュの方を見ずに少し笑う、その顔がまずよかった。ビノシュの方はシャネルの衣装を前にした時の、サングラスを掛けていながらも恐ろしく訴えてくる顔がまずよかった。しかし二人とも、こんなのはまだ序の口だった。


程なく何故かオリヴェイラの映画を思い出した。見ていると、ワンカットごとに、山道や雪道の歩き方でもって…すなわち一歩一歩踏み締めながら進んでいるような気持ちになる(その「逆」は、踵から爪先に抜けるなめらかな歩き方)ともあれ映像がまず素晴らしい。列車でビノシュがスピーチ原稿を見せるとしっかり映る文字や、控え室のモニター内の舞台の手前に並んだ観客の後頭部の列なんてものまで、何かを湛えており見応えがある。


シルス・マリア(原題「Sils Maria」)において、ビノシュとクリステンの「読み合わせ」が繰り返される。始めのうち、こういう場面って「どう」演じるものだろうと考えながら見ていたけど、戸外でもって何度目かの読み合わせをする場面で不意に気付いた。シンプルなことなんだ、作中の二人は「object(クリステンいわく「この作品はobject、立場によって姿を変える」)」を口に出して何かを感じ、考えているだけなのだ、それを演じているのだと。二人が「大自然」の中に在ることでそれが分かった。


冒頭、演出家はビノシュを「(18歳当時の)あなたは現代的だった」と言う。それからずっと、現代的とはどういうことかと考えながら見ていたら、ラストに至り、開演5分前に楽屋にやってきた25歳の監督が「(彼女を想定して書いた主人公は)現代的なのではない、時を超越しているのだ」と言う。この映画はそれを賛美しているのかと思う。その前の場面で演技についての提案をはねつけられたビノシュは「私は記憶の中をさまよってるのかも、もう棄てた方がいい」と言うが、時を超越するには時を重ねるしかないのではとふと思う。


ビノシュの前半の「女らしい」装いも素敵だけど、後半の映画館や舞台での「マニッシュ」な格好もいい。ふくよかな体に細い顔というのがやけにぐっとくる。日本では本作が「もう若くない女とまだ若い女の戦い」のように宣伝されていたけれど、実際に見てみるとそういう感じが皆無なのは、ビノシュの若さに(少なくとも「細さ」に)固執していない容姿にもよる。だから「若い頃に『翻弄された』」ハンス・ツィッシュラーへのあんな態度も、妙味として活きてくるのだ。