フェリチタ!


マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバルのオンライン上映にて観賞。2019年、ブルーノ・メルル監督。住居を持たずに生きる一家の子、11歳のトミーが待ち望む新学期前日の物語。

「音楽をかけなきゃな、最高のを」の後の「Felicita(フェリチタ=幸福)」が、私には、「普通じゃない」マイノリティが一見極めて普通のことを歌うポップスをこそ愛してきた歴史に通じるように感じられた。一家の中で、いつものようにイヤーマフを付けてしまうトミーだけがその境地にはない。

父親ティム(ピオ・マルマイ)の「お前は常に選べる、でも慎重に選べ」は当初ただのずるっこい牽制のように思われるが、後にこの物言いが自身の重い経験に基づいていることが判明する。トミーの「ずるい」に対する母親クロエ(カミーユ・ラザフォード)の「そういうこと」も、断れなかったという「映画」の話も然り。映画の終わりには、二人が「やり直し」をするのは、彼らにとって自分の意思でどうにかなるのがその範囲にしかないからだと分かる。

次第に見えてくることに、事情のある両親の時間はいわば止まっている。一方子どもの方に事情は無く、ただ未来へ進んでいこうとしている。この時間の動きの食い違いが不幸を生む。トミーは水をやっていた畑を踏み潰すなど、未来のためにした行動を自分で削除することを余儀なくされる。クロエは子のために文字通り必死になってぬいぐるみを取ってくるが、それはお金持ちの家の親が子の時間を無理やり進ませようと排除したものである。どちらにも完全な幸せは無い。それがこの映画の態度だろう。

トミーの「今日は大丈夫、明日、明日、明日」が意味するところは、彼女が一日一日を親に迷惑を掛けられないよう憂慮しつつ生きているということである。好きな人に対して嫌な感情を持ちたくない、嫌いになりたくない、だから聞かない、見ない。子どもの出来ることってそれだけだ。それでも目には入ってしまうから、涙が出る。とはいえ映画の終わりの彼女の疾走は本物だろう。あの後時計が噛み合う可能性は、なくはない。