希望のかなた



海の水面に「SPUTNIK」と出てから、船が入港し、大写しになるその名「EIRA」(「カラマリ・ユニオン(1985)」で「フランク」達が目指す理想郷の名)にタイトル「Toivon tuolla puolen」が重なるまでのオープニングクレジット、あの手早さよ。昨今の、音はすれど画面は真っ暗なままで待たされる映画にはうんざりしているので、まずこれが嬉しかった。この一幕は、私には「外国人」のテンポに思われた。もたもたしてらんないという。


カーリド(シェルワン・ハジ)がねめつけるもヴィクストロム(サカリ・クオスマネン)がハンドルを切り、二人の距離が広がった車の後ろ姿に予告編で何度も聞いた歌が流れた時、涙が溢れてしまった。「母さんランプを明るくして、洒落た白いスーツを買って、冷たい土の下に眠る俺に」…そんな詞だったのかと。振り返ればこの「明かり」とは、カーリドが言う「ここにある妹の未来」に違いない。ちなみにこの歌詞は、マッティ・ペロンパーの最期の言葉も思い出させる。


ヴィクストロムがその元を去る妻は赤い服に赤いマニキュアの瓶、赤いテーブルクロス。アキ映画では「赤」は(「男」と恋におちる)「女」を表しているから、関係を断つ相手が赤を纏っているなんて妙だなと、この時点で思う(対してアキ映画の常連女優達が登場時に青を身に付けているのは、おそらくその役割が「女」じゃないから)。終盤彼が妻を訪ねた路地に舞い散る枯葉、車に乗り込む彼女の衣装は、カーリドと妹が再会したテーブルに置かれた花と同じ、アキが「ギマランイス歴史地区」あたりから印象的に使うようになった鮮やかな黄色だ。枯葉だってまだまだ、生きている。


ヴィクストロムがポーカーで大儲けする一幕の長いこと。名優達の顔を映すためかなと思いながら見ていたけれど、振り返ればあれは、高いところから低いところにお金が流れる第一段階なのだと思う。ケン・ローチが金持ちから直接盗むなら、アキは「映画」っぽいクッションを挟むといったところか(笑)後にカーリドが「フィンランドはいい国だと聞いた、内戦があり自国からも難民を出した、国民はそのことを決して忘れないと聞いた」と言うが、暴力をふるう自警団の奴らだけじゃなく、カジノにいつも居るであろう彼らはどうだろうかと考えた。


送還が決まったカーリドは、手錠付きで戻された収容所のテレビで、故郷のアレッポが今日も爆撃されたというニュースを見る。アキ映画におけるニュースは、かつては「同じ世界」で起きていることを忘れさせないためのものだったが、ここへきて更に近い、いやこれ以上近くなり得ない、「今ここ」での出来事になった。同時に、出てくる料理が鮮やかにもなった。誰かと一緒にこんなに素敵な料理が来たよ、というわけだ。


作中のカーリドはフィンランド語が分からない。船員の見ているテレビの人形劇の声に始まり、道の男が何を歌っているか、店の皆が自分について何を話し合っているか、分からないのである。こんな状況、アキ映画においては初めてだ。本作に関する記事によると、アキはアラビア語を知らず、面接時のカーリドの長ゼリフだって一つも分からずに撮ったのだそうで、そこに、変な言い方だけど、引き換えの信頼とでもいうものがあるような気がした。


アキの飼い犬の「役どころ」がいつもと違っていたのには驚いた。難民のカーリドと野良犬のコイスティネンは、「厄介者」同士の仲間なのである。これまでの犬にだってそういう背景を想像することも出来るけれど、「一人と一匹」して同じ日に助けられ、手入れが来れば一緒にトイレに隠れなきゃならないとなれば、強調されていると見て間違いない。そう考えると、あの犬が年老いて見えるのにも意味があるように思われる。


それにしても、本作を見て、アキが日本に愛情を持っていることを改めて確認して、今、日本にいて何もしないんじゃ恥ずかしいと思ってしまった。自分の隣に在る、この世界に対して。