バブル


フィンランド映画祭にて観賞。2022年レータ・ルオツァライネン脚本、アレクシ・サルメンペラ脚本監督作品。

オープニング、16歳のエヴェリーナら女子3人が若く見えた方がいい、いや見えない方がいい、車の中で暖を取っているのがばれたらかっこ悪いなどと話しているのが、振り返れば社会にはある種の物語があることを示しているように思われた。友人がカラオケバーで年嵩の男に酒をおごってもらおうと目論むのもそれに依っているし、「あの人レズビアンなんだって!」と騒ぐ差別意識もそうしたところから生まれる。両親に別れてほしくないエヴェリーナが「私が迷惑を掛ければ結束が強くなる」と考えるのはそれに即した戦略なのだ。

エヴェリーナと彼女を気遣う少年ジョニはそうした世界から抜け出そうとする同志に私には見えた。序盤の「あんたは落ちぶれてアルコール依存症になる」「お前は美貌も役に立たず子どもをたくさん産んでリアリティショーばかり見るようになる」なんて「ありがち」を使う冗談めかしたやりとり(エヴェリーナの友人は「あんたの『美貌』だって」なんてところに注目する)から終盤のパーティーで彼のVRのヘッドセットを外して手を取り抜け出すまで、二人の間には息のつける空気がある。

ガソリンを分けてもらった男性の言では教師である父は「普通とは違う」ようなので(とはいえ「ギターは女性の体です」と言うような男と平気で談笑する、無神経に見える描写もあるのが上手い)、コンドームを渡す際の「性教育」や娘からの「パパはアセクシュアルなの」といった問いかけはフィンランドでも「一般的」ではないのかもしれない。そのニュアンスは分からないけれど、家庭と社会に齟齬があるように私には見えた。エヴェリーナの「家にいてほしい」とは「私と一緒にいてほしい」ではなく「よその人とセックスしないでほしい」。決して見せることのない涙を流す彼女が「関係ないことに首を突っ込んでごめんなさい、いや関係あるけど」と謝るのにいやでも子どもだからと胸がいっぱいになった後、母親の「私たちも迷走中」になるほどそうかと感心させられた。