ジミー、野を駆ける伝説



ケン・ローチが、アイルランドの活動家ジミー・グラルトンにまつわる実話を元に制作。


頭から尻尾まで「意味」のあることしか詰まっていない、こんなにストレートな言葉を用いたストレートな内容の映画を、こんなにまろやかに見せてしまうなんて。昔のローチの作品と比べて「見終わった後の居ても立ってもいられない度」が低いのは、最後に希望が示されるから。この変化には、いずれも好きな作家だからというのもあるけど、一応「労働者」繋がりもある、今世紀に入ってからのカウリスマキを思う。
この映画では…ケン・ローチの映画においては「class」が重要である。ジミー(バリー・ウォード)は「ぼくは労働者階級の仲間(my class)を信じている」とはっきり口にする。「仲間達」の前で「国がついている最大の嘘は、国民皆が一律だということだ、資本家と労働者の利益が同じわけがない、騙されてはいけない」と説く。


1930年代。10年振りにアイルランドの片田舎に帰ってきたジミーは、道に集まり踊っていた若者達から、彼が建てたピアーズ=コノリー・ホールを再開して欲しいと要望される。かつてホールで学んだ兄や叔父が今はこうしているとの言葉の数々に、後に迫害を受けた際にウーナ(シモーヌ・カービー)が娘達に言う「学んだことは頭の中にあるから消せない」ということがもう証明されている。
老朽化したホールの改装作業中、ジミーがアメリカから持ち帰った蓄音器にレコードを乗せジャズを流すと、仲間の一人が「仕事中に踊るのか?」と驚き嬉しい様子で笑う。音楽やダンスはながらのものではなく、今よりずっと大きな意味があったのかなと思う。次いで描かれる、皆がそれぞれ得意なことを教え合う「教室」の様子も面白い。デッサンなるものは彼らの中にそれまで存在していたか?イェーツの詩を読んでの感想の述べ合いは、アクセスし易い行為であるがゆえに「国語」の特殊性を感じさせる。そしてボクシング、ダンス。どれも「やろうと思わなければやらずに終わってしまう」ことだ。


皆にとっての「あの」ジミーについて、シェリダン神父(ジム・ノートン)だけが客観的に、具体的に、滔々と語る。「敵を知る」ために資本論を読み蓄音器を買う彼は、熱意ゆえにジミーを理解し得る。二人の直談判の場面はとてつもなく面白い。又こまかなことだけど、彼がママレードなど食の快楽を存分に味わっているらしき描写の数々に、その貪欲さが表れているように感じた。
自らの「class」を定義し、それに基づいて行動するという点で、ジミーとシェリダン神父は共通している。ジミーに「人の話に耳を貸したことがあるのか」と責められ「人の言葉を聞くのは懺悔の時だけ、それが聖職者だ」と答えることから、彼が自分の「class」をどう捉えているかが分かる。神に代わって弱き者達を管理するのだと、だから教会のみが教育に携わるべきなのだと。しかし懺悔室でジミーに「悪とは愛より憎しみの方が多く心を占めていること」と言われた晩、「黒人女性の歌」を聞きながら酒を飲む。どれだけ「信念」があろうとも、揺らぐならば、その信念は誤っているのではないか?それがローチの主張のように思われた。


シーマス神父(アンドリュー・スコット/「シャーロック」のモリアーティ!笑)の「ジミーはただの労働者だ」という言葉に、シェリダン神父は「母親は移動図書館をやっていた」と返す。母こそが彼を育てたと分かっているのだ。実際、ジミーが国外追放処分を受けた後に母アリスは「私が本を読ませ、疑問をぶつけるよう教えたから捕まるのですか」と訴える。彼女は常にホールの集まりに参加し、音楽に体を揺らし子ども達に読み書きを教えていた。仲間との話し合いでジミーが「神父を委員として取り込もう」と提案すると、「彼らは参加するのではなく侵略しに来るから用心しないと」とアドバイスするのには痺れる(笑)
ジミーが「殉教者」となることを決めて帰宅すると、アリスはその際に息子が着ることになるシャツを繕っている。針に糸を通してやり「次に国を出る時は母さんも一緒だ」と腰かける彼に、「新しい靴を買いなさい、今あるのはぼろぼろ、磨いておいたわ」。二度のいずれの別れ際にも息子に会えなかった母は、それでも毎日髪を巻き、どう生きただろうと思う。


かつての恋人ウーナも彼の衣服を気に掛ける。最初にジミーが着の身着のままで渡米する際「上着はこれ一枚だけなの」と口にする。「会うのはこれが最後」の時には、もうそんな余裕がない。干し草にくるまって暖を取っているのであろうジミーの、草まるけのジャケットが切ない。
冒頭、帰国したジミーはウーナに「おみやげ」と子らの玩具と共に大きな包みを渡したものだ。ニューヨークとある箱を開けると瀟洒なドレス。10年会っていない相手に服を?と少々疑問を覚えるも、ホールの月明かりの中でのダンスシーンに至る頃には「ぴったりだわ」「当然だろ」とのやりとりに、そりゃあ当然だ!と思う。彼女が普段着ているカーディガンもどれも素敵で、衣装が見ものの映画でもあった。