夜空に星のあるように


BBCでテレビドラマを制作していたケン・ローチ長編映画に進出した最初の作品が53年ぶりにリバイバル上映。後のこれ以上完璧な映画ってあるのかと思う幾つかの作品に比べたらローチ自身が未熟と言うのも分かる、ぼんやり捉えづらい部分や既成曲が煩い部分がある。
それでも見どころはいっぱいだ、と楽しみつつ悪い意味じゃなくどこか遠い感じがしたのは、今の私にはキャロル・ホワイト演じるジョイのやることなすこと全て自分だってこの状況なら(フェミニズム的に「巨人の肩に乗る」こともできないわけだから)そうするだろうとしか感じられず、ローチがネル・ダンの小説「Poor Cow」を是非ともと映画化した動機、熱意に体感として近付けないからかもしれない。このことは逆説的にローチの先進性を表しているとも言える(女はその通りに「進んでいる」わけだから。世の中の方は大して変わっていないけれど)。

映画は子が産まれる…苦しんだ末のジョイの股の間に子が出現するのに始まる。同時に彼女も新たに生まれ直したような感じを受ける。見ているうち、それが大きな変化の始まりだったと分かってくる。女にとって、少なくともこの環境の女にとって、結婚する、子どもができるというのは多大な変化だから。その中で彼女は自身の「幸せと自由」のためにとにかく色々やってみる、当初「ありえない」と思っていたエマおばさんやパブの同僚、いわば女の先輩の真似もして。しかし思うようにいかない。
パブで働くジョイの名を聞いた客の男が「なるほど慰み者か」と解釈してにやつくが、ジョイとは誰のためのジョイなのか。立場の弱い者は本心など意に介されず都合良く利用される。だから「私はジョイ」で始まり彼女の心の内がモノローグや文章、女同士の会話でもってあからさまに語られるという作り自体に、同じように進行する前作「キャシー・カム・ホーム」とはまた少し違ったニュアンスが感じられる。

ジョイがパブの同僚と撮影会のモデルをこなすシーンが存外長い。撮影されているのは商業用の写真ではなかろうが、世に出回っている女性の表象、映画だってそうだ、の多くの作られ方はこれと大差ないんじゃないか。しかし、出来上がったもの、例えば終盤彼女が不動産業の男性に(エマおばさんから聞いたのと同じことをするために)話を持ちかける皮切りに使うカレンダーを目にした時、その裏にあるものに思いを馳せる人がどれだけいようか。そうしたものを女の側が利用しなきゃならない悲しさよ。
撮影会の場面は男達の注文(「籐の椅子に座らせると跡がつくからダメ」など、似たような状況を体験したものだ)からその嫌悪せずにはいられない動きや顔つき、同僚の慣れたあしらい顔など非常にリアル。ジョイの微妙な表情も真に迫っているように見える。しかし今の私には、キャロル・ホワイトを「魅惑的であるよう教え込まれた少女だった、それは彼女自身が好んだ面だった」(「映画作家が自身を語る ケン・ローチ」より)と認識していたローチが彼女に「憧れの女優」ふうに写真を撮られるという場面を演らせたことが少々残酷に思われた。

撮影会の前にジョイは写真映りを気にしている。後に鏡の中に魅力的な自分を確認する場面もある。そこで彼女が想定している魅力とは社会によって作られた限定的な女性の表象だが、それこそオープニングに流れるドノヴァン「Be Not Too Hard」の歌詞のように、この世にぽんと生まれた彼女がそのことをどう左右できようか。そして、魅力的でありたいと思う気持ちとそれを搾取されたくないという気持ちは併存しておかしくないのに、強者はそれを矛盾として突いてくる(魅力的なんだから奪われて当然というわけ)。ジョイと同僚が道行く男性を云々する場面にはそこから離れた自由がある。
魅力的な相手とはセックスしてもいいという強者の理論は裏を返せば強者とセックスするためには性的魅力がなければならないということで、女というか弱者にとってのみこれが呪いのように働く。これが「ジョイとは誰にとってのジョイなのか」という問題に繋がるのだ。