わたしは、ダニエル・ブレイク



公開初日、満席続きのヒューマントラストシネマ有楽町にて観賞。


昨年「ケン・ローチ初期傑作集」で「キャシー・カム・ホーム」を見ておいて本当によかった。50年前のそちらと本作とは、テーマといい綿密なリサーチに基づいている(と、こちらでは表立って言われないが)作りといい実に同じ、だけど政府のやり口は巧妙に、いや身も蓋もないことになっており、ダニエル(デイヴ・ジョーンズ)と役所のやりとりは「そんな方法、アリなんだ…」という馬鹿らしさゆえコメディのように見える時すらある。


ケン・ローチの映画は私にとっていつも美しいけれど、この作品には、映っているものの何から何まで、一つ一つ、ダニエルが役所に言われて「時間をつぶす」ニューカッスルの町の様子からケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)が夜中に娘のために風呂場のタイルを磨く手のアップ、それこそフリーズしたディスプレイの上部にちんまりと動かない「GOV.UK」の王冠マークに至るまで、全てが鮮烈であるという類の美しさがあった。


この映画を見ると、上の世代から下の世代への継承、隣人同士の助け合い、そんなものは当たり前のことであり、それだけを描いている映画もそれに感動している自分もくそであると分かる。そんなことをしているうちに貧乏人は死んでいく。今は腹の足しになること、誰もが「今日という日は何だったのか」と思わずに済むようになること、のために何かをしなければならない。このことを訴えるためにローチは再び映画を撮ったのだと思う。


オープニングの、ダニエルと国…といっても「政府が委託したアメリカの企業」のスタッフとのやりとり(この時、対面している相手が彼の字は汚くて読めないと言うのはどういうことだろう?)と、彼のPC操作を手伝っている途中で配偶者が亡くなったと知り「sorry」と声を掛ける役所の職員アン(ケイト・ラッター)とのやりとりは対になっているようにも見えるが、ダニエルに水を渡し「前例を作ってしまう」仕事ぶりを上司に注意される彼女も結局のところ彼を救うことは出来ない。


ダニエルは年長であることや大工という職業上の経験からケイティ一家をいわば実用的にも助けるが、これから大学に行こうとしている彼女はお返しをしたくとも「実」を持たない。だから自分の分の食事をダニエルに回す。そんな彼女が子ども達との暮らしのために更に違うものを売らねばならなくなるのは分かりきっている。子どもの靴が壊れたことが切っ掛けとは「木靴の樹」を思い出させるが、今なら当然本作のようになるだろう。日本でもよく聞く話だ。


ダニエルは「子ども達に申し訳ない」とうなだれるケイティに「君には未来がある」「大学に行けば羽ばたける」と言い、彼女に「本棚」を作る。子どもには見て楽しいおもちゃ、大人には勉強に役立つ本棚、なんて書くと四角四面な感じだけど、ああいうところも好きだ。一方で、ダニエルが売らず手元に残した大工道具は、彼の腹も心も満たしはしない。使わなければ意味が無いから。


この映画の一つ、素晴らしいのは、性を売ることには尊厳を売るという大きな一面があるとはっきり言っていることだ(伝わるか否かはさておき!)。昔も今も多くの映画はそれについて見て見ぬふりをし、あるいは無知を晒し、あるいは選択肢が一つしか無いダニエルに「あなたはそれを選ぶんですね」と確認する役所のような態度、すなわち「自己責任」との言葉によって自分を含む社会に問題は無いのだとするやり方を取っている。


仕事をしないよう医者に止められているのに求職手当の申請のため職探しをしなければならないとは、まさにダニエルいわくの「とんでもない茶番」である。この映画で最も身につまされるのは、この時に彼が参加を強制される履歴書講座の「fact!」「fact!」のエピソードである。「群れから突出」しなければ生きられない社会なんておかしいに決まっている。それなのに、今の日本にだってこういう物言いがあふれてるよね、「実際問題そうなんだから仕方ない」って。「fact」を変えていかない限りずっと下り坂なのに。


ダニエルとケイティが共に役所から追い出されるという出会いの場面にも、ローチがずっと描き続けてきたことが表れている。自分に敬意を払わない相手に追従することなんてない。帰り道にケイティの息子がカートをいたずらするのもそう、彼はあの社会に対して大人しくしてないってだけなのだ。子どもの世界はまだ小さいから、ダニエルとの交流で持ち直すことが出来る。それは「良いこと」だけど、子どもを支える大人が立っていられなくなったらどうしようもない。落ちたタイルに張り詰めていた気持ちの糸が切れてしまうケイティの姿を見た時、本当にたまらない気持ちになった。