天使にショパンの歌声を



この邦題は、一定の世代には「常識」である「天使にラブ・ソングを…」から来てるんだろうけど(確かに宣伝効果は大きいと思う!)全くの別物。学校と音楽と、何より「女達」とがうまく絡んだ映画だった。恵比寿で見たこともあり、イメージが被るのはむしろ「裸足の季節」かな(あれも外郭は「女の子」を「女の先生」が救う話だからね/でもって私は本作の方が好き)


(「裸足の季節」の原題である)「Mustang(野生の馬)」に絡めて言うならば、途中に挿入される、倒れて起き上がる飼い馬が主人公マザー・オーギュスティーヌ(セリーヌ・ボニアー)である。彼女は「マザー」としてもう走れないならばと自分の名で立ち上がる。だから最後に彼女の恩師は、「シモーヌ」を冠した音楽院の名の響きを「美しい」と誉めるのだ。


映画はまだ薄暗い中、雪を踏みしめてマザー・オーギュスティーヌが戻ってくる場面に始まる。仕切られた小部屋から裸足で出て来た少女達が、二列に並んで食堂へ向かう。暖房など無さそうな室内で、熱を使わない料理を食べる。こうした描写から、彼女達が節制していることが分かる。同時にルーティンワークの中の、しかしずれのある会話の内容から、同じように見える日々にも「動き」があることが伝わってくる。


カトリック修道院の運営する寄宿制女学校の校長であるマザー・オーギュスティーヌが置かれている状況が、丁寧に説明される。政教分離政策による公立校への転換が進められての財政難の中、「とにかくお金のことばかり」を考える本部の新総長は「節制をし、よき妻を育て」よと命じる。自分を殺して強者に囲われよと。時は1960年代、シスターの娯楽室のラジオからは「ピルの主導権は男でも神でもなく女にある」「教職者はボランティアじゃない」などの主張が流れる。マザー・オーギュスティーヌは考える、修道女が労働者の権利や経営者の自覚を持ってもいいのではないか。


音楽教育に力を入れているマザー・オーギュスティーヌの、作中始めの授業が面白い。生徒が弾くモーツァルトの幻想曲を途中で止め「へ短調は心をかきむしる」「モーツァルトは旋律を替えるごとに自由を求めている」。どちらもそんなこと、考えもしなかったから、ふと惹き込まれた。また中盤の「学校を救う集い」で学校側が披露する「ショー」はまさに教会を使ったエンターテイメントで、表現する側のサービス精神と楽しさとが見事に合わさった、幸せなひと時が得られる。


転校生のアリス(ピアニストのライサンダー・メナード)の、スカートを短くしたり、男の子と「性的なこと」をしたりといった行動に、選択できるのならばそれらを「しないこと」も「自由」に値するが、そうはいかない年頃においては、自分を救うために「すること」しか選べない、すなわちするしかない時もあると思った。だから彼女は、マザー・オーギュスティーヌと過ごして「救われる」ほど、髪をまとめるようになる。記者達の前で初めて「大切な曲」を演奏する時には逆に一杯ひっかける、なんて描写もうまい。


マザー・オーギュスティーヌが、アリスのピアノの弾き方…「お手本はバッハ、後は独学」と譜面も開かずテンポも保たずやたらとペダルを踏む、そのやり方を「正そう」とするのは、「恋の記憶は薄れたけれど苦い記憶が残っている」自分と同じ道を辿らせまいとしてである(「苦い記憶」とは堕胎である)。冒頭アリスの母親に対して固い態度を取るのは、今だって悪夢を見るくらいだからだが、最後に会う時にはもう違う。彼女もアリスに救われたのだと分かる。「(「マザー」でなくなることにつき)どう思う?子どもは持たなかったけど、自分らしく生きてきた」。これは、女は「副大臣」にしか会えず、「議院の妻」にしかなれなかった時代の話なのである。今もそんなに変わったとは思われないけれど。


この映画で面白いのは、マザー・オーギュスティーヌの同僚のシスター・リーズの描写である。仲間がうんうんと聞く(ここぞと言う時に「安い労働力」と自分の言葉として使いもする)ラジオの主張に顔をしかめるが、そこから離れようとはせず、聖書?に隠してクロスワードパズルの本を読む。やがて彼女が「田舎から救いを求めてやってきたけれど、最近は周囲がざわついて戸惑っている」と分かる。教室で、目の前の生徒自身ではなく「情報」に頼ろうとすることや、自分に逆らう生徒とその「原因」を見えない所へ追いやって済ませようとすることは、彼女のそうした心持から来ている。教育にはその人そのものが現れるのだ。