ビリーブ 未来への大逆転


冒頭、「ハーバードマン」の中に入ることを許されたルース・ベイダー・ギンズバーグフェリシティ・ジョーンズ)ら女達は、「彼女達のため」に開かれた歓迎会で「男の席を奪ってまで入学した理由」を問われその内容をジャッジされる。主催の学部長グリスウォルド(サム・ウォーターストン)に「それはいい理由じゃない」と遮られた女性の次にルースが「よい妻になるため」と言う、いや言ってやると女達の間に笑いが起きる(特に先の彼女が大きく笑う)。こうした描写が面白い。
キャプテン・マーベル」同様、ここにも「女は笑顔でいろ」という抑圧があるが、こちらでの意味はまた複雑で、「皆は君が笑った方がいいと思うだろうから笑った方がいいよ」と言う、お前がその「皆」を作っているんである、悪気はなかろうと。この映画を締める言葉を聞いてほしい…「女には何も望まない、女の足を引っ張る男にやめろと言いたい」。

これが先例主義との闘争の話であることは早々に分かるが、ルースが夫マーティン(アーミー・ハマー)の就職に伴い大学の移籍を希望するのにその主義に倣って他の学生の例を挙げても、学部長はハーバードの権威を守るためとすげなく拒否する。所詮はそんなもの、全ては強者の目的…例えば「女を家庭に閉じ込めておく」ためにいいように使っているだけなのだ。
マーティンの「法は決して完成しない」との言を引き出した教授の「法は天気に左右されなくても人の変化には左右される」、ルースもそうと頭で分かってはいるが、娘の行動に初めて、その「人」が隣にいたこと、自分もその「人」であることに気付く。見ている私も自分が法の変化、彼女の弁論に倣って言えば「人が変化する権利を守る」法の変化に寄与できるのだと気付く。そういう映画である。

男達の「普通なら女は家にいるものだ」という類の言葉の後にギンズバーグ家の日常が挿入されるのが繰り返されるが、夫の料理姿などより面白いのは、子どもが父親の方に懐いており母親には反抗的なのを父が諭すという描写。男女逆なら見飽きているほどよくあるものだ。その娘ジェーンが終盤に放つ「ママは料理しない」もいい、状況によって何が誇りとなるかは異なるということだ。考えることをしない人は一律にしておきたがるけれども。
タイプライターの両側に夫婦それぞれのファイルが置いてある画がいいなと思っていたら、平等を表しているのかその後も時折左右対称の画が表れる。夜の窓を背景に夫婦がデスクで仕事する図には、子どもの頃の両親を思い出した。