ルース・エドガー


聴衆のいない涙のスピーチと本番のスピーチとを比べた時、私達が見ている他人とはおよそ、あるいは常に後者でしかないのだと思わせる、そういうことに気付かせるのが映画の役割だと私は思う。何かにそのように役割を負わせるだなんて、この映画をほんとに見たのかと言われるかもしれないけれど。

これは人が我に返る時…慣用句ではなく、社会科教師ハリエット(オクタヴィア・スペンサー )の言葉を借りれば自分が入れられている箱の存在に気付いてそこから出ようともがく時、人と人との関係に亀裂が走ることがある、それは大抵、しばしば箱に入れられるマイノリティの身に起こるという話であり、その「我」を体現しているのが、付け直された名で生きる「ルース」(ケルヴィン・ハリソン・Jr )なのである(あまりに話の中心すぎて、私には時折ルースの姿が見えなくなった)。

その亀裂は悪意に満ちたものとは限らない。私にはまず「なぜ別れたのか分からない」ルースとステファニーの間のそれがそうであるように思われた。「普通の家庭を持ちたかっただけ」のピーター(ティム・ロス)とエイミー(ナオミ・ワッツ )の間にもひびが入りそうになる。面白いのは、それに気付いたエイミーが、あるいは元より知っていた少年少女が、ということは弱い側の人間が、その関係をセックスで何とかしようとするところである。この物語ではどうしたってピーターや校長といった白人成人男性は何にも気付いていない呑気な存在にしか見えないが、彼らがセックスをそのように使うことはあるだろうか?

尤もルース自身は以前から「我に返って」いたのであり、作中最大の亀裂は彼とハリエットの間にずっと存在していた。彼女いわくの「学校は特殊な場所」という理由で覆い隠されていただけなのだ(だからこの物語は学校が舞台なのだ)。生徒が帰り日中とは打って変わって静かになった学校の描写はどんな映画でも面白いものだが(本来いるはずの、主役が消え失せた場所だから)、本作の、二人が対峙する教室の恐ろしさ、悲しさはどうだ。戯曲が原作だそうだけれど、この映画ではロッカー内部を映す冒頭より空間が本当に不穏に撮られていて心を掴まれた。

ハリエットのことを話す、あるいは話さない、家族三人の車内の場面が二度繰り返される。序盤はエイミーが「sternな人」と評すると男二人が「ビッチってことだ」と言い換え、彼女の「性差別的な言葉はやめて」でその場は終わる。「きびしい」と「ビッチ」に共通するのは何なのか考えながら見ていると、次第にハリエットの教師としてのやり方が露わになってゆき、それをそう言っているのかと思う。終盤には彼らが共謀して彼女を陥れた後の沈黙が車内を支配する。戸棚の前でのルースの涙にふと、人が家族を作るのはやはり味方を得て生きるためなのかと思わされた(そんな社会、私は嫌だけれども)。