メイド・イン・バングラデシュ


先月セウォル号沈没事故の起きた16日にエッセイ集「目の眩んだ者たちの国家」内のパク・ミンギュの文を改めて読み事故と事件は異なると心に刻んだものだけど、この映画のオープニングに描かれる、実際の出来事を元にした衣料品工場の火災についてもそう、アイロン部門の配線や逃げる女性達で混み合う階段、雇用側にとって働き手などどうでもいい存在だということが表れている。だから死者が出たのだと。そういえば非正規雇用だったため避難訓練に参加していなかった社員が火災で死亡したという事例が最近あったじゃないかと思い出す。

ミシンを踏むのに始まり主人公シム(リキタ・ナンディニ・シム)ら女性達の素足が印象的(シムの家へやってきた皆がベッドにぎゅうぎゅう詰めで座っている時の裸足など楽しい)。私達はシムがその足で歩く姿を、例え夫に引きずられ家へ帰らされるそれであっても、多くはその後ろ姿を、つまり進んだしるしを見続けるわけだけど、物語の最後、あとがなくなった彼女は「動かない」という手に出る。見ながらずっと法が死んでいるのが気になっていたから、それは電気ショックのように響いた。

ダリヤ(ノベラ・ラフマン)の「独り者のつらさ、あんた忘れたの?」とは一人が寂しいというんじゃなく、大家が「夫に捨てられたらどうするの」と言うように、女は一人じゃ生きていけないという意味である。とにかくそれが辛い。シムは13の時に40絡みの男と結婚させられそうになり父の財布を盗んで逃げてきたと生い立ちを語るが、女達は少しでもましな方、ましな方をと道を選び続けて何とか生き延びている。ダリヤだって弁当が「匂う」ような居候から抜け出したく、結婚している身上がほしくて既婚者と付き合っているのである(この事の顛末は、中盤街で流れている歌の「女がヒジャブを取ると邪な心がうずく」云々という歌詞が示唆してもいる。全て女のせい)。

教育を受けず逃げてきたシムは英語に触れる機会がなく、工場の視察の様子を動画に撮り記者のナシマに見せて初めてそのやりとりの内容を知る(彼女達が分からないと思ってあの場で話しているんだろう)。ナシマのオフィスにはシム達の暮らしでは見つけない英語で書かれたポスターや本が溢れており、それがよそから入ってきた、持ってきた、あるいは世界で共有すべき概念であることを示しているが…それが英語で表されるのを「当然」とすべきではないが…彼女に教えられてシムが出向いた集会では、主催者が自分たちの言葉で私達には人権があると唱えさせて自身のものにさせる。

インド映画「きっと、またあえる」(2019)における「素朴な子」「都会風の子」「モデル級の子」(日本語字幕より)の順に女性の肌の色が白くなっていくという場面には衝撃を受けたものだけど(主人公の男性は最後の一番「白い」子と結婚する)、この映画では、「色の白い」女性が出ているLUXの石鹸のCM(実在するものなのかな?)を十代前半にして結婚を控えた娘が見ているという何とも色々批判的な目線があった。テレビの中の映像が人々の実際の暮らしとあまりにかけ離れているというのが第一の意味だとは思うけれども。