ともしび


シャーロット・ランプリング演じる主人公アンナの夫役アンドレ・ウィルムカウリスマキ映画の常連なので(しかもここでも犬を可愛がっている・笑)二人が無言で夕食を摂っている絵には暖かさを覚えてもいいはずだが、そうならない。それまでの運びもあるけれど、二人の前にあるのが、アキ映画なら隣家の壁が見える窓のところが大きな鏡だから。
全編通じて出てくる鏡は、アンナがこちら側に閉じ込められていることを示している。他の映画を見ていても感じるけれど、今はもう恋人や夫婦だけで閉じこもっていることは善ではない、換言すればそうは居られない。これはそう生きてきたアンナが一人になって初めて外の世界との隔たりに気付いてもがく話である。

アンナがどのように生きてきたか、花の扱いで分かる。どう見ても枯れ切った花の束を流水(とは言えないほど弱い流れ)につけながら、一番枯れた部分を取り除けば何とかなるかもしれないと選ってみる。やっぱりだめだというのでゴミ箱に、更には外のゴミ捨て場まで持って行く(後にもこのようなシーンがあるが、これは彼女が今は自分がその主となった家に嫌なものを置いておきたくない気持ちの表れである)。
しばらく後、いい匂いのする花を買ってきて、またしばらく後、雄しべや雌しべをちぎって捨てる。変な言い方だけど、息の根を止めればもう死なないだろうとでも言うように。それから息子に電話をしたり犬に餌を食べさせようとしたりと「やり直し」を図るが上手くいかない。彼女はどうにも不器用な人に見える。

サスペリア」を見た際、映画で描きうる最大の恐怖は取り返しのつかなさであり、マザーは最後にそこから少女達を救うのだと書いたけれど、この映画(これを作ったのもイタリア人の監督だ)はその取り返しのつかなさの中に生きる老いた女を描いている。
アンナは「主」であることを手放し夫に従う人生を選んだ(息子との断絶の理由が彼女でなく夫にあることからしてもそう言えよう)。夫無き後に食卓の席を変え家の主となってももう遅い。いったん「主」であることを手放してしまったら、そのまま生き続けてしまったら、取り返しがつかない。「サスペリア」のマザーに値する誰かがいるわけでも自分がそうなるわけでもなく、彼女は再生の手立てを探してさまよう。それまでずっと映っていたランプリングの顔が最後の数分は見えない。おそらく「見る者次第」というやつだろう。

アンナが地下鉄に乗る改札の手前で、「アースリング」の頃のボウイみたいな…とは言えないな、ユニオンジャックを体中にはりつけた男性が「Modern Love」を歌っている。Don't believe in modern love. これは映画の作り手からの、根っこのない信仰では幸せになれないというメッセージだろうか。
何らかの理由で夫を失い一人になった中年あるいは老齢の女性が「生き直す」映画は多々あるけれど、この作品はそれらへのアンチテーゼというか、こういう映画もあった方がいいんじゃない、という提示のようにも見えた。そう簡単じゃないでしょう?という。でも悲しくはならない。このような映画を作る、そういうところに目を向けさせようとする人がいるのだから大丈夫とも考えられるから。