ノクターナル・アニマルズ



オープニングには戸惑わされた。直近に見た「すばらしき映画音楽たち」でクインシー・ジョーンズが「映画音楽は感情の潤滑油」と言っていたけれど、このテーマ曲は心をどこへ滑らせようとしているのかと考えた。「次第に明かしてくる」タイプのこの映画を見ているうち、これはスーザン(エイミー・アダムス)の心情なのかと思い、しばらく後には、彼女のような人間に対する誰か(映画の話をする時に言うところの「神」)の心情なのかとも思う。展示の内容については、彼女の、この世界に母親(ローラ・リニー)的なものとは逆のものを溢れさせよう、それでもって安堵しようという試みじゃないかと想像した。


鏡の中の「素顔」を経てエイミー・アダムスがベッドで素足の上に原稿を乗せるカットが実に美しく(尤もそれこそ、他の装飾的な画面との、アンドレア・ライズブロー演じる友人いわくの「相対的な」効果かもしれない)物語が真に始まるのはここからだと思わせられる。小説を読み始めた時からスーザンの頭の中で主人公トニーは元夫エドワード(ジェイク・ギレンホール)であり(そんなふうにこれを読むのは彼女しか居ないはずなのだ)、作中では自身も殺されるのに、読んでいる彼女は明らかにエドワードと「同期」している。これが私には謎だった。私達には明かされない優れた筆致ゆえなのか。


ジェイク・ギレンホールが、この世の全てはメタファーだとしても、今年日本公開の二本「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」と本作という、「メタファー」をこんなにも表に出した映画、しかも車を使った映画に続けて出ているのは面白い。遍在しながら役に立たない十字架、死んだ娘と生きている娘。不愉快極まりない暴行の場面がやたら長いのは、スーザンの回想には当たり前ながらエドワードの苦悩が一切無く「突如車の前に現れる」こととの対比、こんなに苦しんのだという訴えのように思われた。


エドワードの「sensitive」とはどういうものかというと、まずスーザンの兄に関する言葉から、愛されたら何らかの愛で答えねばと考える人間であると分かる。愛する者には才能があり、発揮されていなければそれは封印されているだけ、愛しているなら相手の才能を信じるべきだと考えている。これは確かに厄介だ。対してスーザンは、エドワードが「誰かを愛したらその愛を大切にしないと/失ったら二度と手に入れられないかもしれない(You might never get it again.)と言うのを回想している、つまりちゃんと覚えているのに、「元に戻る」と思ってしまう人間である。


トニー=エドワードとテキサスの刑事ボビー(マイケル・シャノン)のすることは現実離れしているが、現実ではないのだから構いやしない。ダイナーで二人が向かい合う姿に、これは男達の話でスーザンはそれを覗くしか無いのだという気がして、でもそれはこの映画から受け取るべき「感じ」ではないと考えたものだけど、振り返ればそう、「男達」ではなく、ボビーはトニー=エドワードの一部、用を足した後には消える、優しいだけではない「テキサス男」の一面なのだ。だから彼の言う「相手は銃を持っていたのか」はエドワードの「自分は本当に何も出来なかったのか」という自問自答、「権利、権利ってうるさいんだよ」はスーザンが中絶したことへの非難にも受け取れた。


見ていて最も戸惑ったのは、エドワードが自身の経験を「妻子を暴行殺害された男として描く」、端的に言って「レイプを用いて描く」のは、憎悪の深さゆえなのか、無神経さゆえなのか、それともこの物語自体の作り手が憎悪あるいは無神経さを備えているからなのか分からないという点。「カトリック」でないと理解できないところもあるに違いない。ともあれ、そういう人間だということなのか作り手として妥当と捉えているのかが分からないことによる当惑は、「シングルマン」にもあったけど見えなかっただけなのかもしれない問題である。トム・フォードの映画は面白いけれど好きにはなれない。