her 世界でひとつの彼女



とても面倒くさい映画だけど、そこが面白い!10日続けて見ても毎回新たな感想があふれてきそう。
始めのうちは「設定」の妙からくるちょっとした思い付きの数々に翻弄されつつ、「OSに恋をする」って、自分に「最適化」されてるんだから「当たり前」でしょ、と思っていたら、予期していなかった展開により、恋愛における「普遍的」な問題が表れる。更に「恋愛」を超えた問題へと進む。この鮮やかな面白さ。


(以下「ネタバレ」あり)


オープニング、ホアキン・フェニックス演じるセオドアの顔がスクリーンいっぱいに映る。「手紙」が特別なものとなった世界において「手紙の代筆」を職業としている彼は、50年連れ添った夫へ妻から送る文章を音声入力している。PC画面には彼らの写真が表示されているが、目の前に居ないどころか知りもしない誰かに向けた言葉を綴る時、人は、彼はどこを「見る」のだろうかと考え、その目の動きを見る。カメラがどんどん引くと、同僚達も同じように「書いて」いる。
私ならあんなふうに誰もかれもがぼそぼそ喋っている環境は落ち着かないけど、その世界では、公共の場でも多くの者が音声認識によってコンピュータを操作している(他の国ではどうだか知らないけど、日本ではまだ「追いついていない」光景)。世の中がそうなれば、私だって自分や他人が「目の前に誰もいないのに喋る」のに慣れるかもしれない。セオドアだって、世の中がそういうふうだからそうしているのだろう。


セオドアがサマンサとの初めての会話において「名前はいつ付けたの?」と尋ねると、「聞かれたから本を読んで気に入ったのを選んだ」。OSが「本を読む」のに掛かる時間は、人間にとってほんの一瞬。サマンサはセオドアと一緒でない時、ものを考えたり、ある曲を「ずっと聞いていた」り、曲を作ったりする。「非言語的」に曲を聴くってどういうことだろう、なんて想像するのが楽しい。彼女の作った「写真」が流れる場面では、こんなふうにすれば「写真」と映像を一緒に味わえるだなんて、憎いアクロバットだと思う。
会話の間合いだって「人工的」なのだ。意図的に「人間の真似をしてる」のに、セオドアは「君が話す前に息を吸い込むのは変だ、酸素も要らないのに」と言い放つ。職場の同僚ポール(クリス・プラット)とのダブルデートにおいてサマンサの「知的」な暴走に場が白けたり、サマンサとアラン・ワッツ(のOS)との繋がりにセオドアが嫉妬したり(彼の気持ちを表すかのようにお湯が沸くこの場面、別荘?の台所でガスを使っているのが面白い、この映画には「古い」ポイントがたくさんある)、「普通」の恋人同士に「ありがち」な状況が可笑しい。


セオドアが「日曜日の冒険」で電車に乗り、階段を上って海に到着する場面には涙がこぼれそうになった。駅の構内で彼は、端末を見ながら歩く人とぶつかりそうになるのを楽しむ。彼は端末と向き合っていない、端末と一緒に同じ方を見ている、だからそんなことも楽しいのだ。サン・テグジュペリのかの有名な言葉を思い出してしまった。
混み合った海岸でセオドアが寝転び、サマンサが作った曲を聴く時、その体勢が「spoon」であると気付く。思えば彼が彼女を胸ポケットに連れている時はいつも「spoon」だ。最初の恋人であり元妻のキャサリンルーニー・マーラ)に植え付けられた「spoon」が、セオドアにとっては女性との物理的な「在り方」なのではないか?「代理サービス」の女性を背中から抱きしめ、サマンサに「顔を見せて」と言われる。サマンサとの最後の会話の際、いつものように端末を胸に持たずに移動するが、横になったベッドの端と空を舞う埃が何度も映るのは、「spoon」なら「彼女」が居るはずの場所だから。


こういう映画を見ると「セックス」「女」なんて分類して考えるのは意味が無いとも思うけど(いや、これは紛れも無く「男」「女」を意識して作られた話だけど)、それでもやはり、それらについて面白いことが幾つもあった。
セオドアはチャットでのセックスには昼間にチェックした妊婦のヌードを思い浮かべるが、サマンサと初めて「セックス」する際には、セリフだけでスクリーンが真っ暗になる…すなわち「何」も見ない。何でも可能であるかのような世において、真に希少なセックスだ。もっとも肉体を持たないサマンサが「入れて」と言うのには笑ってしまった。何かを参照しての言葉か、それとも「人間のため」に作られた「もの」は当然のように人間を模すのだろうか?
「人間とOSとの恋愛において肉体を提供する代理サービス」の女性は、「何のjudgmentもない二人の純愛に混ざりたい」と言う。その「欲望」は、誰か一人を好きになって関係を築きたいという欲望…すなわち「普通」の恋愛とどう違うのか?OSとの恋愛が「あり」とされる世界なら、そういう「恋愛関係」があってもおかしくない。


セオドアは、マンションのエレベーターホールでエイミー・アダムス演じるエイミーとその夫のチャールズ(マット・レッシャー)と一緒になる。セオドアの手のスムージーを見たチャールズの「果物は搾ると繊維質が壊れて糖分しか残らない」に対し、エイミーは「彼は果物の味が好きで飲むと幸せな気分になる、それだって体にいい」。初登場時からこんなに意味ありげなことを言っていいのかと思うけど(笑)アダムスの演技のおかげで見ていて白けない。この後チャールズが「僕また講釈垂れちゃった?」と言うのが、OSと違って人間は「学習」しない(するとは限らない)というのを表してるようで可笑しい。
エイミーが「大きな決断は一度に一つ」と、仕事は辞めないがまず離婚を決めた夜、彼女の家のソファに座って二人が語り合う、その間の距離が優しい。ラストシーンではセオドアの肩にエイミーが頭をもたせかけ、さながら「横スプーン」とでも言うようにぴったりくっついた格好になる。OSとしか出来ないこともあれば、人間としか出来ないこともある、という当たり前のことを思う。


人間同士の一対一の関係、以外の恋愛が「横行」すれば国は困るだろうから、少なくとも日本なら、お上が何らかの手立てを取るだろう。「猫の死骸」で首を絞めて欲しいとねだるチャット相手の女性(エンドクレジットでクリスティン・ウィグだと分かり嬉しかった・笑)はOSとセックスしたらどうかと思いながら見てたけど、国の管理の下ならOSに矯正されそうだ(笑)この映画には、物語の「邪魔」となる国や政治の匂いが無い。
ポールが恋人を職場に連れて来ていたり、セオドアがエミリーの職場を訪ねていたりと、私生活と仕事の境目も曖昧だ。もっともそうでなければ、「際限無く働き通し」のOS達は読書会の前に労働組合でも作ってるかな(笑)かように本作には人や国、私生活や仕事の境界が無くグラデーションのような感じを受ける。男性達のハイウエストの衣装が、ローウエストほど「土着」のイメージがある私にとっては、この映画にぴったりだった。
物語を締めるセオドアの「手紙」集、著作権は彼にあるとはいえ、もし私なら送ったりもらったりした手紙をオープンにされるなんて嫌だなあと思うけど(誰もそのことについて考えなかったのかと思うけど)、それが「共有」の進んだ世界ってことなんだろうか?「Letters from your life」というタイトルが、英語の「you」のニュアンスは日本語と違うとしても、本作の世界を表してるなと思った。