BPM ビート・パー・ミニット



冒頭のACT UP Parisのミーティングの場面がとても面白く、心をぐいと掴まれた。「新入り」視点で始まるそれは「ようこそ」「我々はアクティビティ団体だ」「メンバーは外からは(陰性だろうと)HIV陽性として扱われる」、討論参加のルール説明を皮切りに、紹介されて立つ者と立たない者、複数人での仕切り、インターネットが普及していない中で一人がその場で情報を探して選んで読み上げての共有、手話による通訳、全てがあまりに生き生きとしている。まるで最高の授業を見ているようでもあり…ってロバン・カンピヨはこんな映画が作れるなんて、そりゃあ「パリ20区、僕たちのクラス」の脚本だって上手かったはずだ。


このミーティングにおいて先日の会議乱入活動を振り返る段になって初めて、オープニングのフランス語に字幕製作者が訳を付けなかった理由が分かる(アデル・エネル演じるソフィいわく「死人が出たんじゃないかってくらいつまらなかった」からに違いない)。前回の活動の振り返りと次回の活動の話し合いが行われ、後者の場がまるでフラッシュフォワードのように挿入されるうち、作中の時間はその最中、その後に移ってゆく。この映画ではミーティングや活動を始めとするあれやこれやがシームレスに描かれ、全て繋がっているのだと思わせる。


突然のキスにMr. Fingers「What About This Love?」が流れ始めて、ダンスへ、セックスへ、まさになだれこむ。見ながら心がときめいてしょうがなかった。当たり前だけどこれは恋愛映画でもある。ショーン(ナウエル・ペレーズビスカヤート)とナタン(アーノード・バロワ)の長尺のセックスシーンは素晴らしかった。欲望(「性欲」に限らず)から複数の人間によるセックスが行われる時に必要なものはひとえに責任と思いやりであると強く訴えている(深読みすれば、その他のものは却って目眩まし、邪魔になるかもしれない、いや責任と思いやりを完全に持てない者の言い訳かもしれないとさえ思わせる)。


初めて参加したミーティングにおいて亡くなったメンバーの写真付記事を見るナタンの人生が、昔から死の意識と共にあったことが分かってくる。彼だけじゃなく当時の大勢の人生がそうだったに違いない。「初めて見た同性愛者に関する記事は『同性愛者は死ぬ』というもの」、好きだった男が病に冒され、共に入会した友人ジェレミーは程無く死ぬ。次いで愛するショーンが入院する。ナタンは見舞いに行った足でまたデモに参加する。映画が終わった後のミーティングで、彼はショーンの写真付記事を見るのか、多分見るだろうと思う。


歴史を専攻しているジェレミーは1848年のデモについて「群衆に怯えた兵が発砲したせいで人々が死んだ」と語る。啓蒙ポスターを貼っていたメンバーは通行人に「楽しく過ごしているのに怖がらせるな」と文句を付けられる。ACT UP Parisに乗り込まれた製薬会社の代表は「社員が恐れているからやめてくれ」と口にする。なぜ彼らの側が怖がるのか。ナタンが「暴力行為としか思えないなら訴えてくれ」と強く言うと代表は「それはしない」と答えるが、彼らも内心ではその構図がおかしいと気付いているのだろうか。私は当の場面において、人はもっと怖がるべきなんだと思った。ただし怖がるべきは、自分が恐怖の元凶に加担していやしないかということだ。でもって自分や誰かが何かを奪われたことに我慢ならないなら「act up」していいんだと思う。それが効果を生もうが生むまいが、黙って死ぬよりはいい。