めまい 窓越しの想い


舞台は高層ビル。契約社員として働く主人公ソヨン(チョン・ウヒ)と清掃員のグァヌ(チョン・ジェグァン)が窓越しに出会う。彼女のことが気に掛かる彼は、昼休みに書店でソヨンが手にした旅の本とドリンク(お馴染みの「牛乳」)をこっそりデスクに置く…と、彼女は不審がりながら飲んでしまう。ここで少し心が冷めてしまった。昨今そんな描写、無神経じゃないか。めまいに悩むソヨンが「Vertigo」(原題同じ)なんて店を次長と屈託なく行きつけにしているのも変だ。符合というやつだろうか。面白い話だったけれど、所々このように受け付けない部分があった。

映画は高層階でのセックスに始まる。ジンス次長(ユ・テオ)と別々に下りビルの外へ出たソヨンによる「落ち着かなかったけど何とか一日を終えた、地に足がついて安心した」とのナレーション。この映画では高所が次長との秘密の関係や契約社員という身分に生きる彼女の不安を表していると分かる。しかし彼女は不安は感じていても「高さ」は実感していないように思われる。作中二度、始め次長と、次いでグァヌと同じエレベーターに乗って上昇する場面があるが、ビルの内側の移動では高さが掴めない。ビルの外側へ廻って初めてそれ、すなわち自分の立場を実感するという話である。

映画における病には数々の意味がこめられているが、ソヨンのめまいは第一に、過去に義理の父に殴られて鼓膜が破れたことに遠因があるようだ。第二に、実はこの要素が作中最も心に残ったんだけども、その病は会社では知られてはならない。耳鳴りに悩み補聴器を作ってもらうも、当のオフィスでは使えないんである(契約社員の後輩いわく「向こうは粗探しをして契約を切ろうとしてるんだから」)。何て辛いことだろう。グァヌの亡き姉はライブ配信でいわばセックスを売って店を出すための資金を稼いでいたが、当然ながら映像からはそのことが分からない。女の辛苦は外からは見えない。

終盤、グァヌがビルの屋上に一人腰掛けているカットが挿入される。アメリカ映画で育った私には、あれは都会を守るヒーローのシルエットにも見えるが、彼にはそんな行為は出来ない。ただ一人を見守るだけ、彼女が大変な危機にあってもガラスに阻まれ手が届かない。映画の終わりに二人がビルの外側で高さを実感する場面は、私には、自分達の不安定な立場をしかと心得て、それでもやって行こうというメッセージに思われて、今の韓国、あるいは世界をよく表していると思いつつ、ちょっと釈然としなかった(尤も作り手にそんな意図は無かったのかもしれない、広く解釈ができる映画である)。