SAINT LAURENT/サンローラン



オリヴェイラの「アンジェリカの微笑み」が肉体と魂が仲良くしている映画なら、こちらは仲良くできずにいる(者の)映画だった。イヴ・サンローランギャスパー・ウリエル)の指示により眉を抜かれている、「ジョーン・クロフォード」になるモデル(カメラが映す彼女)こそが彼の好きな、いや安堵できる「魂のない肉体」なんではないかと考えた。


始め、イヴは音楽とチョコレートムースを傍らに、いつものように翔んでいきそうにちょこなんと腰かけてデザイン画を描いている。多忙が過ぎてきたらしき次の場面では、ピエール・ベルジュ(ジェレミー・レニエ)の手土産のチョコレートを「疲れているからいらない」と断る。疲れているからとチョコレートを口にするような、そういうふうにうまくやっていけるような人間じゃないわけだ。
この映画はイヴ・サンローランの「1974年」に始まり、遡って「1967年」からの10年間と、それを振り返る晩年(演:ヘルムート・バーガー)とを描く。「モダンであろうと努力し成功した、今は『サンローラン』であろうとしている」と語り、記者に心の内を吐露するイヴと、彼を「先進的だ」とプレゼンし、記事を葬ろうとするパートナーのピエールのセックスが、あの「クローゼットに鍵」というのは何だか面白い(因みにこの映画の「セックス」場面はどれも「同じ」ところで切り上げられており、それがいい)


冒頭、イヴが仮縫い中のドレスの袖を外させると途端に魅力的になる。彼は「こちらの方が明確だ」と言う。この映画もそういう感じだった。明確というのはこの場合、その間違いなさで目を捉えるってこと。「実像」が描かれているか否かはともかく、映画としては「これしかない」ふうに決まっている。
例えば三度用いられる画面分割はいずれも、そのさりげなさと「明確さ」が素晴らしい。一度目は五月革命に始まる社会情勢とイヴのコレクションが並んで進む、その面積の割合がいい。二度目は…この映画には序盤のピエールと関係者の会議を始め(あの異様な長さ!あれは必要だ)イヴがおらずとも「サンローラン」が在る場面が多々あるが、二度目の画面分割は、彼の入院中に(「皆がいなければ僕はない」と涙ながらに語った)スタッフが準備したショーに、本人が薬の力を借りてすっと入り込む、いわばイヴが「サンローラン」に融合する場面において使われる。三度目はそのショーの高揚が「モンドリアン」風に示される。


豪華な墓に豪華な花を供えたところで墓は墓だが、それをするのが人間だ。振り返ればこの映画には、生きていくだけなら「やらなくてもいいこと」ばかりが過剰な程に描かれている。対して人間からすれば「やらなくてもいいこと」をしないのが「犬」であり、イヴは犬を飼うことで「地に足を付けている」。イヴにそのこと、換言すれば彼が「普通ではいられない」ことを指摘する母親役がドミニク・サンダというのがいい(だってそれは「妙」だから)
同様に、短い出演時間でも強烈な印象を残すのがやはりテデスキ様で、始めから魅力的なれど、イヴのアドバイスにより鏡の前で見る間に輝きを増していく姿は眼福の一言。くわえ煙草のレア・セドゥがその髪をほどくなんて画まで見られる。テデスキの最後のセリフ「ありがとう、サンローラン」の「サンローラン」とは「何」だろう?