
見ながら頭をよぎったのは、よくその後継者と言われるロメールの作品ではなく、昨年「男と女」を見返した時に思ったことである。なんて普通の人達なんだろう、と。普通の人の先に普通の未来があるという話。それが愛しくも少し怖くもあった。
イザベル・ユペール演じるナタリーは、教え子ファビアン(ロマン・コリンカ)が彼の車に流れるウディ・ガスリーの曲について「飽きたけどこのCDしか聴けない」と言った後に、おそらく前日の慌ただしい移動のことを念頭に置き「夫はブラームスばかりだった、うんざり」と口にする。もし彼の車にまた乗ったら、彼の飽きているその曲がまた流れるのに。しかし「二度目」は無い、もうその曲は流れないのだった。
ナタリーがファビアンと待ち合わせ、公園の中を歩きながら「40過ぎた女は生ゴミね」なんて愚痴る、それが公園を抜けた出口では「まあいいや、哲学を教えられるだけで幸せ」となり、でもまだ絞りかすのような気持ちが残っていて、彼が自転車に乗ろうとしているのに話し続ける、あれが映画の面白さ。時の経つテンポが気持ちいい。
歩くと言えば、先の場面でユペールが「これだけは(失うのが)残念」と言う夫ハインツ(アンドレ・マルコン)のブルターニュの実家の、目の前の海辺で携帯電話の電波を求めて歩く、もう電話は繋がったのだから動かない方がいいのにと思うけど歩き続ける、それはぬかるみの中では止まれないからなんだと思う。
母イベット(エディット・スコブ)の葬儀でナタリーはパスカルの「パンセ」を朗読する。選んだのは「神はいるともいないとも示されないが、私の心は真の善を志向する」という部分である。何とは無しに聞いていたが、しばらく後に彼女がファビアンの仲間の若者に対し「私も昔は闘ったけれど何も変わらなかった」と言う場面でそれが蘇り、自分なりに謎が解けたような気がした。
思えば映画の始まりは奇妙だった。生徒の作文から目を離すなよ!とはらはらしてしまう(笑)シーンの後、「音楽は聴くだけじゃだめだ、理解しなければ」と力説する夫が、「海と風の音をただ聴くためにここに眠ることを望んだ」シャトーブリアンの墓の前で自分もそれを耳にし、動かない。振り返るとあの姿は、「パンセ」のあの部分に焦がれつつ「今は何もしない」ナタリーを表しているのではないか?理想と現実の乖離というのとは違う、その場に身を置いて初めて分かる、というか…
この物語は、娘が父親に「(母親かもう一人の女かの)どちらかを選べ」と迫ることから動き始める。あれが無ければ夫婦はあのまま固まっていたように思われる。
元夫のことを「彼に急進主義思想は無理」と揶揄するルソー派のナタリーだが、彼女自身も「止まっている」ことを若い世代からはっきりと、あるいは暗に責められる。おいそれとそれを聞くわけではないのが楽しい。ストのために生徒のまばらな教室での「民主政は完璧すぎて人間には無理」なんて引用や、「思想と生き方が合致していない」と詰め寄るファビアン(彼には責めるつもりは無いのである、それも世代差だと思う)とのやりとりのあげくの「私はただ自分でものを考える人間を育てたいだけ、あなたはその成功例」なんて捨てゼリフ。嫌がらせなんかじゃなく、生きてきた実感がこもっているように思われた。
ところで、「モン・ロワ」のマイウェンは76年生まれ、「未来よ こんにちは」のミア・ハンセン=ラヴは81年生まれ、どちらもフランス出身で年の離れた映画監督との結婚歴有あるいは最中という共通点がある。同時に新作が公開されているのは結構な偶然だ。
出てくる夫婦はそれぞれ、まさに正反対の二人と、18の時から互いを知っている、外から見れば「同志」の二人。前者のヴァンサン・カッセル演じるジョルジオが別れ話を切り出された際「俺もこれからは本を読む、君が読むのを二冊買う」と言うのになるほどと思ったものだけど、後者の夫婦は本を共有しており、別居後に本棚がすかすかになってしまう。ジョルジオの「別れる気がなくても共有しない」という態度はまさに彼そのもの、本についてはそのやり方はいいなと思った。