セールスマン



オープニングに短く映る、「跡」の残るダブルベッドに、どんな人達がどんなふうにしていたのか想像してみるが、すぐ分かることにそれは舞台のセットなのだった(だからこそ「跡」と見るのがやはり正解なんだけども)。後にどちらに「妻」が寝ていたのかも分かる。舞台に腰掛けている男の腹の脂肪でベストのボタンの合間の数々からネクタイが見えているのを不穏に感じていると、話が始まる。振り返ればあの時、彼は女のことをふと思い出していたに違いない。


なるほど演劇の映画である。代役をつけられ舞台裏で暇をつぶしている妻ラナ(タラネ・アリシュスティ)と声の演技をしながらの女優のやりとりが面白い。夫婦の仮住まい(としか言えない、今となっては)での、他人の子の前でのやりとりや夫エマッド(シャハブ・ホセイニ)の喋りも演技のように思われる。夫の方がより「作っ」ている感じがするのは、やはり彼の方が「外」に向けて生きているんだろう。


映画はまるで誰かの夢でもあるかのような一幕に始まる。「棒倒し」のように、工事中の隣の地面が掘られた建物が廃墟となる(窓ガラスに一筋入るひびの効果的なこと)。私には、ちょっと根っこをつつけば倒れてしまうような世界に我々は生きているということの表れに思われた。引っ越し先の屋上から辺りを見渡したエマッドは「ひどい町だ」「全部壊して作り直さないと」と言い「壊してやり直したところがこれだ」と返されるが、どこに行ったってそうなのだ。


普段つつかれもせず決まりきったこととして放置されているのは、例えば一度も映ることのない「娼婦」である。作り物の舞台では、「娼婦」役の女優は「裸だって言ってるのに服を来てる」なんて馬鹿馬鹿しいことで笑われるだけだが、今回の事件を人々は「いかがわしい女」のせいと見なす。隣人夫婦の「ああいう奴らに思い知らせてやらなくちゃ」「変態野郎の顔を見てみたい」なんて言い草の酷さよ(ちなみに「変態」と訳されていたのはどういう言葉だったんだろう?日本でのこの言葉の使い方には全く腹が立つ。変態か否かなんてどうでもいい、犯罪者か否かでしょう、問題なのは)。 彼らが「娼婦」に罪を押し付けることが出来なかったら、ラナはどう言われていたことか。


はっとさせられたのは、終盤、壁の陰に男が一人、手前に一人(それはエマッドである)同じように腰掛けている画。あれは彼が生徒に言った「あの女性は前に男性にひどいことをされたので、男は皆卑劣だと思ってるんだ」というのを表しているように思われた。それに対する生徒の「彼は国語の先生で皆に好かれています、と僕は伝えておきました」…そんな言葉、いや「事実」が彼女には何の意味ももたないことを、若い彼は知らないのだろう。知っている大人のエマッドでさえ、「当事者」になれば真の当事者とすれ違う。


もう一つ印象的だったのは、ラスト近く、とある人物のヒジャブがとある人物をすっぽり覆い、外から隠しているように、保護しているように見えたこと。あれはかなり異様に…意図的に見えた。家長は大抵先に死ぬものであり、その死に様は色々である。残された者ばかりが大騒ぎするはめになる。この映画での家長の死もまた、自死のように思われた。


高校の国語教師であるエマッドの授業風景が面白かった。一人一人丁寧に撮られている男の子たちはやがて彼のようになるだろうか、あるいはならないだろうか。舞台の「死」を見つめる、タクシーに同乗した子や、写真を撮っていたいわば家長を持たない子は何を思ったのか、とても知りたかった。