モン・ロワ 愛を巡るそれぞれの理由



「俺はただのろくでなしじゃない、ろくでなしの王様で、ろくでなし達を派遣する」(だっけ?)というジョルジオ(ヴァンサン・カッセル)のセリフが振り返ると面白く、ああいう男がああいうふうに生きているのを見て、同じような道を踏み出す、でも王様じゃない男というのが生じるのかもしれないと思う(「モン・ロワ(Mon Rei)」=「私の王様」)


トニー(エマニュエル・ベルコ)がママ!の呼び声も聞かずゲレンデを勢いよく滑ってゆくと場面換わって、膝を大怪我している。医者が彼女に語り掛ける、「膝、とゆっくり言ってみてください」「ひざ」「『私達』ですよね」。なぜ膝を怪我したと思いますか、と問われ「スピードを出しすぎて板と板がぶつかったから」と返すが、それだけでも十分、これまで彼女が辿って来た道を表現し得るのに、医者は答えにならないと更に踏み込む。以降はトニーの回想の合間に彼女がリハビリに励む場面が幾度も挿入されるという、メタファーにも程がある作りで、まずはそれにより、「今」は「大丈夫」のはずだと安心しながら見ることが出来る(最後に思いがけないスリルを味わうことにもなるが・笑)


リハビリ中のトニーが大勢の中の一人であることで、同じような人間がこんなにも居るのだと言っているのが面白い(「さざなみ」の、パーティでカップル達が「煙が目にしみる」で踊る画の「皆そうなのだ」に通じる)。「(退所する)五週間後には歩けるかな」「無理だよ、完治まで5年はかかる」「若い時とは違う」なんてやりとりもある。やがてトニーは特定の男達と行動を共にするようになるが、彼らは「なぜ俺達と一緒にいる?頭の程度が違いすぎるのに」と訝しむ。彼女の答えは「大笑いできるから」。かつてジョルジオが「俺がセラピーに取りかかる前に皆に祝ってもらおう」と開いたパーティの席で、「私はあなたの仲間にふさわしくない?」と乱れた姿を思い出す。


映画におけるセックスシーンが大抵即、挿入なのは、そこだけを見せているんだと思うけど、本作のヴァンサンは本当にそういうセックスをしそうに見えて面白い。俗な言い方だけど女と一緒に居ることが既に前戯、とでもいうような(「人を楽しませるのが喜び」とは、始めの会話からもう、そうなのだと分かる)。諸々と「セックス」(この場合は挿入)とがシームレスに繋がっている、すなわち「セックス」にはあまりこだわりの無い男なのだと思う。


新たに借りた部屋を「ここは君と子どもが『泊まる』場所」「ここは仕事をする場所」「(多分、不特定多数との)付き合いをする場所」と区分けするのはジョルジオの生き方そのものであり、そうしたいという願望は私も持っているなと思った。実現できるかはともかく(実現するのにもエネルギーが要る)。「マタニティブルー」が産後の症状だと知らず「まだあるのか」と冗談ともつかない言葉を飛ばす場面では、彼の時間は止まっている、というか彼は同じ事を繰り返してきているのだと気付いた。「誘ってきたのは君だろ?」「俺が俺だから好きになったんだろ?」は同じ事を言っているのであり、これもまた、彼の時間が止まっていることを表している。


リハビリ施設をいわば卒業したトニーは、映画の最後の一幕で息子シンドバッドの面談に出向く。二人の生み出したものが見事に結実していることが分かりはっとする。やって来ると分かっていたジョルジオが遅れて現れ、かつて自分が彼女に贈った腕時計を認める。彼女は彼を他人のように、というのは改めてその魅力を確認するかのように、見る。ともあれ嵐は過ぎ去ったのであり、「今」はそのことを両者とも分かっているのだ、というふうに私は見たけれども、正直なところ何もかもがよく分からなかった。