
雨の日に暖も取れず震える二人、「エドガーに頼るしかない」に反発して椅子をぶっ壊し薪にするヒースクリフ(ジェイコブ・エロルディ)へのキャサリン(マーゴット・ロビー)の「ヒースクリフ!」からこっち、楽しくて仕方なくなる。他にも色々手立てがありそうなのにこんなことしか出来ない二人、が延々続く予感。分別なんか持つもんかと。かつて家政婦のジラとの営みでキャサリンを目覚めさせた下男のジョセフに後年問うとそんなものから遠く離れた答えが返って来る場面が素晴らしく効いている。
「ヒースクリフは私」が、この映画では単に自分の延長のようなものだから何とでもなると言っているように聞こえる。「愛している」にせよ「彼は私のもの」にせよ、愛と言われるのはその類のもの。男から女への感覚なら珍しくもないはずだ。SNSにもいわゆる境界線のない男の話がよく流れてくる。男が享受してきた愛という名の娯楽を女にようやく、あるいは満を持してやらせている映画だと言える。一方キャサリンに「愛したこともないくせに」と言われるネリー(ホン・チャウ)は「わきまえている」『レベッカ』のダンヴァース夫人なわけで、愛を決して外に見せない代わりに愛以外のものを表に出す。
キャサリンが主役のこの映画では、登場の妙を見せるのは彼女じゃなくヒースクリフだ。やっぱりうつ伏せだよね(『ベイビーガール』(2024年アメリカ)参照)のところへ手から現れるのといい、自慰に気付かれたと思ったら次の場面では眼前に立っているのといい、再会時の影といい見事だ。申し訳程度に父親の所業でエクスキューズされているが、楽して贅沢したい、いい男とセックスしたい、が叶って加速して、あいつを殺そうか、命令してくれ、にこれはやばいと別れることにしたキャサリンがヒースクリフと会わなくなってからは、この嵐が丘は私にはもうつまらなく、すぐ死んで終わりでよかった、あるいは最早、死ななくてもよかった。嵐が丘とは死んでも終わらない話だが、この映画は死んだら終わりなんだから楽しいことだけしようと思わせた。