ダンサー イン Paris


主人公エリーズ(マリオン・バルボー)の筋肉に見惚れてしまう腕に始まる冒頭からしばらく、ダンサー同士で衣裳を留め合ったり柔軟運動をしたりという、パリ・オペラ座バレエの『ラ・バヤデール』上演前の裏側、いわば現実が描写される。ボーイフレンドの「浮気」に動揺したエリーズが舞台に上がると(映画の観客である私が)宙に浮いたような奇妙な感じを覚えるのは、非・現実が描き出されるべきなのに彼女の心があまりに現実にあるという矛盾のせいだろう。映画は時間的にはクラシックバレエに始まりコンテンポラリーダンスに終わるが、コンテンポラリーの舞台ならあんなふうに感じなかったのではと考えた。エリーズと親友アナイスのやりとり「コンテンポラリーは地面と親しい感じ」「バレエは空は向かっていく感じ」とはそういうことだろう。

エリーズが療養師のヤン(フランソワ・シヴィル)に言う「バレエのお話は女性が不幸になるものばかり、死んだり『浮気』されて亡霊になったり」とはバレエに無知な私の持つイメージと同じだけども、詳しい人は(このことに限らず本作の諸々につき)どう思うのだろうか。そうはいってもバレエへの愛がまず存在し、他の愛と融合していくところにクラピッシュらしさがあるわけだけども。怪我の療養中にエリーズがアパートメントでトレーニングする様子が、他愛ないようで一番心に残った。

映画には作り手によって倫理の線引きとでもいうものがなされている。例えば女から男へ、子から親へ…力のないものからあるものへの態度の是非の基準が示される。本作は「16歳の女の子を倍以上の男の脇に跪かせる(男には遠くを見させる)」ようなカメラマンや「浮気」する恋人は切る(それ以上の描写をしない)が、親友サブリナ(スエリア・ヤクーブ)の、登場時から言動のあやしい恋人ロイック(ピオ・マルマイ)や突然(といっても薄々予感はするが)迫ってくるダンサー、「美味しい」「愛してる」とは決して言わず怪我した娘を放って帰る父親(ドニ・ポダリデス)などは「話せば通じる=話さねばならない相手」として置かれている。サブリナとロイックの「会話」はトラックでの毎晩のセックスなんだろう(こういうところが私がいまいちクラピッシュを好きになれない理由なんだけども)。