ミルピエ パリ・オペラ座に挑んだ男




「練習に遅く来て早く帰る、週に二度はマッサージする、
そうすればキャリアをよりエンジョイできる」


「自分自身の喜びのために踊るんだ、
観客が見ているのは裏方の僕じゃなく君達だ、
個性を出すんだ、
コンテンポラリーとクラシックとを区別するな」


「エゴイストになれ、努力は自分のためのものだ」


この作品ほど、今年劇場で見た中で、終わり頃にもう一度オープニングが見たくなった映画はない。始まりはトゥシューズ、一瞬ミルピエかと思うが、それは勿論、本番前のダンサーの足。しかし見ているうち、あれが「彼の足」であってもそんなに外れていないのではないかと思う。そんな内容である。
冒頭、舞台袖に、ヒールの高い「赤い靴」を履いてはいるがバレリーナではなさそうな女性が立っており、横顔が映るとミルピエのパートナーのナタリー・ポートマンである。以降、彼のやりとりの相手は彼女ではと思わせる場面は何度かあれど(さり気ない「結婚指輪」もそれを意識させる)、もう彼女は出てこない。


「晴れている日はここが事務所代わり」とガルニエ宮の屋上で一人PCに向かうミルピエの姿に、彼についての言葉が流れる。「僕達の親の世代とは全然違う」「ジョギングをし、冗談を言い、自分でも踊り、レッスンの時にダンサーの体に触れる」。無知な私は、他の人はそうしないのかと思う。ミルピエは練習後のダンサーの足を揉んでやりもする。
しばらく後のレッスンの場面で、経験豊かそうなリハーサルピアニストの笑顔が挿入されるが、これだってこれまでは無かったのかと思う。プレミア前に「後ろでまとめればどんな髪型でもいい」と言われた女性ダンサー達が、「これはやめておく」「あまり引っ張らないで」などとスタイリストと談笑しながら鏡の前に座っている様子には、インタビューでの男性ダンサーの「ヘアもメイクも全てプロ任せだった」との言葉を思い出す。


「バレエの衣装」を身につけたダンサーの群れが舞台で審査される映像に、ミルピエの語りが流れる。「まるで軍隊だ」「まず体型で審査され、以降もずっと不安と恐怖に苛まれる」「25人の中に一人だけ有色人種がいれば目立つからと白人しか採用しない、アメリカじゃありえない」。後に「初めてハーフのダンサーを主役に抜擢した」彼のステージの様子が挿入されるが、その際に目を引くのは、当の主役以外のダンサーの視線や表情である。私にはなごやかに見えた。
ミルピエはまずレッスン場の床を衝撃を吸収する物に張り替え、「一ヶ月後には専任の医師をつける」と宣言する。実際のステージの床を見ながらのオペラ座総裁とのやりとりには、冒頭の会議での彼の「大型客船を動かすのは大変だが必ず動く」との言葉は、ダンサーの無理あってのことなのだと分かる。


映画はミルピエがニコ・マーリーの手による曲を受け取った日から40日後のプレミアまでを追う。最後の初演の場面の、スローモーションやアップを駆使した映像を見ながら、ミルピエは「バレエは総合芸術で何が欠けても成り立たない」と言うが、映画もそうだ、バレエを統べるのが彼なら、この映画を統べるのが映画監督なのだと、この時になって初めて思う。
それではこの「映画」が何を訴えてくるかというと、「普通」、この手の映画では「プレミア」はクライマックス、あるいは「ゴール」であるものだけど、なぜかそういう感じがせず、「中途」の空気がある。初演が終わりミルピエらが壇上で拍手を受けた後、「四ヶ月後にミルピエはオペラ座の芸術監督を辞任した」との文章、次いでこの映画の監督の名前が出る。そういう映画だった。