スモーク/若者のすべて


年末に出掛けた旧作上映。



恵比寿ガーデンシネマにて「スモーク」(1995)デジタルリマスター版を観賞。
今見ると、思っていたより「マッチョ」な映画に感じられた。だからつまらないという意味ではなく、公開当時からの20年の時の流れを思った。


冒頭オーギー(ハーヴェイ・カイテル)が客と「もうすぐ煙草屋なんて商売は禁じられる」「そのうち誰かに笑い掛けるのも禁止になる」と冗談を飛ばし合うが、映画が公開された1995年(舞台は1990年)当時、大学生だった私は学校でもどこでも煙草を吸っており、そんなふうに、「煙草を吸うこと」がいわば反体制的な意味を持つなんて感じたことも無かった。喫煙を自由と結びつけるだなんてセンスは今では古臭く感じられるけれど、私にはその段階も無かった。
ちなみにオーギーとポール(ウィリアム・ハート)がトーマス(ハロルド・ペリノー・ジュニア)に「本当のことを言え」とけしかける、いや迫る場面が浮いて感じられるのも、「『真実』を言う」ことがこの物語では特別な意味を持つからというだけでなく、「『真実』を言う」ことの意味が今では違ってきているからだと思う。


この映画が公開されるのはほぼ20年ぶりなわけだけど、作中では20年位が一つの単位となっており、私はその「20年」を体でもって知っているわけだから、何となく面白い。
ルビー(ストッカード・チャニング)は18年と数か月ぶりにオーギーの前に姿を現し、その娘フェリシティ(アシュレイ・ジャッド)は17歳、「ラシード」は17歳を迎える誕生日の頃にポールと知り合い、その「父親」であるサイラス(フォレスト・ウィテカー)は知らず「息子」に「20年分のがらくたが詰まってる」部屋を貸す。少年は父親のその時間を消し去ってしまいたいかのように慌てて片付ける。


煙草屋が閉まったところにポールがやってきて「まだ買えるかな」と言うと、オーギーは「オペラに行くわけじゃなし」と咥えていた煙草を道端に捨てて再度店を開ける。さっき消したのをまた点けただけの灯りが温かく感じられる。その後にオーギーがポールに自分の「一生の仕事」を見せる自宅でもそう、自分のためだけに点けた灯りじゃないから。ちなみにこの場面でふと「この世界の片隅に」を思い出していたら(あの映画を作る時には誰かのこんな『仕事』が役に立ったんだろうなと)、オーギーはちゃんと「ここは世界の片隅だけど…」と言うのだった。
一方でルビーがオーギーを訪ねて来た時にジミーを追い出し簡易的に「二人」の場にした店内には、昼間だから明かりもなく(あるんだろうけど分からず)緊張が漂っている。


映画のラスト、デリのショーケースの前で灰皿を脇にオーギーがポールに「クリスマス・ストーリー」を語る時、カメラは次第に、びっくりするほどオーギーに寄っていく。その口から彼の中に入り込んでしまいそうなくらい。それからポールの瞳にも寄る。彼の「君は実に作り話がうまいな、いや、いい話だ」に対しオーギーは「秘密を共有できなくて何が友達だ」と答える。
「クリスマス・ストーリー」の「映像化」ではっきり見えるものは、老婆の表情と、財布とカメラが「交換」だったこと。何事もそう、やりとりなのだと。「他者」同士が交差する、それは少年の言うように「理想」かもしれないけれど。



▼武蔵野館で開催中の「ルキーノ・ヴィスコンティ 生誕110年 没後40年メモリアル イタリア・ネオレアリズモの軌跡」にて「若者のすべて」(1960)を観賞。
私は次の「山猫」以降の作品の方が好きだけど、これも劇場で見ると本当に面白い。真っ黒なスクリーンが「映像」になる瞬間から三時間、釘付けだった。美しき「兄弟」愛のとばっちり、どころじゃない被害を女が受けるという点でふと「ジャージー・ボーイズ」を思い出してしまった(笑)


「南の果て」の「オリーブの国」からオレンジを携えてやって来たパロンディ一家。母親(カティナ・パクシヌー)が「お父さんは故郷から離れようとしなかった、私は25年間ずっと、息子達のために都会に出ることばかり考えていた」と(観客に)明かすタイミングがいい。
始めのうち、寒い中、部屋のドアを閉めるよう言ってばかりの母親が、終盤のロッコアラン・ドロン)の優勝を祝うパーティでは(「山猫」の舞踏会の場面の方がそりゃあ素晴らしいけれど、これだってまた違う素晴らしさがある)、家を開け放ち町と一体になっている。しかし故郷に帰りたいロッコは家族だけに向かってスピーチする。


娼婦のナディア(アニー・ジラルド)が一家の息子達に「体格がいいから仕事なんてすぐに見つかる」との後に拳闘を勧め、シモーネ(レナート・サルヴァトーリ)の初試合の日に外で待っているなんてのは、田舎者を水商売に「落とす」手口にも見える。娼婦とボクサーは共に「見られ」る職業である。ナディアの「仕事」の描写は無いが、その仕草から、彼女が常に「見られ」ていることが分かる。視線と言えば、特に前半など、登場人物の誰も誰とも目を合わせて喋っていないように見え、ゆえにロッコとナディアの再会やその後の場面が「感動的」に映る。
この映画のある意味でのクライマックスは、アラン・ドロンが「コートを着込んだまま(=「裸」とは真逆の格好で)」(ボクサーとしての)自分に金を出してくれるよう電話口で頼む、その顔のアップである。吉原に身売りしてるような(笑)でもってラストシーンでは彼の「錦絵」が売られているという。


「女性映画」としても面白かった、といっても終盤のチーロのルーカへのセリフ(この唐突な「テーマ」語りもヴィスコンティらしい)に「世の中はよくなる」とあるもののそこに意識的に「女」が含まれているとは思われず、ヴィスコンティは意図していないんだろうけど。
冒頭、ジネッタ(クラウディア・カルディナーレ)はヴィンチェンツォに「好きな女がいたらものにするよう母親から言われてる」「(お前の)親の承諾なんていらない、俺はお前をものにする」と言われ、平手打ちして「『私の』承諾は要る」と返す(「今」の映画にも全然ありそうな場面である)。そんな彼女が自分を物扱いする彼と結婚するのは「今」の感覚からすると不思議だが、この夫婦はいわば「普通(=世間への迎合)」の象徴であり、それに対するのが、「俺の女だ」と自分を凌辱したシモーネに向かって「あなたは私の大切なものを汚した」と叫ぶナディアである。「普通」じゃない女は殺されるという話なんである。このセリフから、女にとって大切なものは貞節なんかじゃない、男にとってそうであるように尊厳なのだということが分かる。当たり前のことだけど、「今」でもなかなか分かってもらえない。