ファイアーブランド ヘンリー8世最後の妻


キャサリン・パーについて語り始めるこの声は誰のものかと思っていたら、程なく後のエリザベス1世であるエリザベス(ジュニア・リース)と分かる。娘が母のことを話している。劇場にて2時間後「父、ヘンリー8世の墓は朽ち果て100年間無視された」に意表を突かれていたら、映画は彼女がいわゆる壁を越えて私達を見てくるのに終わる。「歴史といえば男と戦争ばかり、女については想像するよりほかない」、それに呼応する「エリザベスの統治時代には戦争はなかった」との文でくるまれたこの映画はその姿勢をよくよく示す。

キャサリンアリシア・ヴィキャンデル)の「信念を貫かなければ王妃である意味がない」から、これは彼女がどんな信念を持っているか、それを実行するためどう努力したかの物語だと分かる。妊娠を告げるタイミングの見事さ(変なことを言うようだけど、作中の彼女のというべきかこの映画のというべきか迷う、そんな映画)、一転おれの子なのかと疑われ暴力を振るわれ流産しそうになる、流れないでと血まみれで粘る壮絶さ。やりたいことをやるのにこんな道しかないという、今の時代にも通じるむなしさ。そして彼女がささやいた相手であるトーマス(サム・ライリー)は、というか男達は信念を貫くどころじゃない。

冒頭キャサリンが昔馴染みの活動家アン・アスキュー(エリン・ドハティ)に言って笑い飛ばされる「彼は私には暴力を振るわない」、このことの意味を普段から時折考える。暴力を振るっていたなんてと別れるのは簡単だが…それは作中のキャサリンはもちろん今日でも恵まれた立場の女性にしかできないことかもしれないが…他の女性を暴力に晒すことに繋がるかもしれない。しかし自分がそんな男を引き受けるいわれもない。じゃあどうすればいいのか、に対する答えがこの映画の創造したラストだ。素晴らしいセリフ、「どちらも地獄行き」であっても。

目立っていたのは、キャサリンと、いわば追い払われていたのを彼女が呼び寄せたエリザベスとエドワードとが「家族」であったというところ(パッツィ・フェラン演じるメアリーが「母」に冷たかったのは、成人済で一緒の時間を過ごしていないからと解釈した)。ヘンリー8世ジュード・ロウ)はこのことを理解しておらず、だからこそ三人を呼び寄せるのを簡単に許したんだろう、終盤エドワードがキャサリンをお母さんと呼ぶのにお前の母親は死んだろう?と不思議そうに言う。血筋ばかり、そういうところがダメなんだという話である。