ウォーキング&トーキング/トーチソング・トリロジー

特集上映「サム・フリークス Vol.23」にて二本立てを観賞。いつもそうだけど、かなり面白い組み合わせだった。


▼『ウォーキング&トーキング』(1996年アメリカ、ニコール・ホロフセナー監督)で描かれるのは少女時代からの親友二人を中心とした人間関係の進展。ちなみに前回上映された『ヤラ!ヤラ!』(2000年スウェーデン、ジョセフ・ファレス監督)の主人公の友人の勃起障害の件と同じく本作のローラ(アン・ヘッシュ)の婚約者フランク(トッド・フィールド)のイボの件も今となっては「男性がなかなか病院へ行かないこと」の問題のように見えてしまった。こちらでは散々言われて叫ばれもした末に病院へ行ったことをどうだとばかりにある形で誇示するもんだから彼女は気分を害してしまう。

結婚はゴールじゃないと言っておきながら映画はあえて結婚式(の直前)に終わる、「そういう話」じゃないから。少女達のいわゆるパンツ一丁の二つの尻に始まるオープニングを人に見られるだなんて意識していないことの表れかなと見ていたら、エンディングは鏡の前のドレス姿のアメリア(キャサリン・キーナー)とローラ。他人に見られるんじゃなく自分で自分、あるいは自分達を見る話だとここで分かった。

フランクの「ぶさいくと付き合うと優位に立てるぞ」に後押しされたからなのかアメリアはビル(ケヴィン・コリガン)とデートをするが(こんなセリフというかやりとりをする、してしまうところがいかにもホロフセナー!とりわけ本作から『おとなの恋には嘘がある』(2013)あたりまでのね)セックスして彼の肌を文字通り知り好意を抱くも裏で「ぶさいく」と話していたことがばれ去られてしまう。この要素は『おとなの恋には嘘がある』で変奏が行われているように思うけれども、そちらではトニ・コレット演じる親友との関係は確固たるものとして揺るがずジュリア・ルイス=ドレイファスとジェームズ・ガンドルフィーニ演じる男女は「くっつく」。それもよいが本作の流動的な感じには何とも瑞々しい魅力がある。


▼『トーチソング・トリロジー』(1988年アメリカ、ポール・ボガート監督)はハーヴェイ・ファイアスタイン原作主演による舞台劇の映画化。「好きで女装家になったわけじゃない……でも、がんばっても、ハイヒールしか履けなくて」「誰も愛してると言ってくれない、ぼくは愛した……でも、十分じゃなかった」。まずはアヴァンタイトル、スクリーンに焼き付けられた、私達に語り掛けてくるファイアスタイン演じるアーノルドの表情が素晴らしい。「でも」の前後の矛盾の間に無限がある。

映画の終わりにアーノルドが抱きかかえる帽子、オレンジ、眼鏡に写真。ゲイのわが子、愛しているが認めてくれない母、思うようには愛してくれなかった男、愛し愛されたがホモフォビアによって殺された男。彼が愛するのは彼らがいるから、「愛さずにはいられない」からだが、それはアラン(マシュー・ブロデリック)を殺した奴らが思っているような、ママも取りつかれていたような、「ゲイの愛は下等」との偏見への反抗ともなる。アランがアーノルドに愛を告白するのが「うちは『そういう店』ではありません」なのも、男三人があのアパートに暮らしているのもそう思われてくる。それが「デヴィッドからアーノルドへ」に繋がるのだと。今ならもう「名前を確認」しないだろうか、そう社会を進めるのが私達の責務だ。

公園前でバスを降りる時のあの口調、アン・バンクロフト演じるママとアーノルドは瓜二つだ。話が進むうち、ウサギを集める彼はウサギのスリッパを履くママ、パパと35年間(入院中を除いて)片時も離れなかったその夫婦関係に憧れていたことが分かってくる。母の方はやることなすこと全てが世の、あるいはユダヤ人の慣わしにたまたま沿っているが(「夫が死んだらフロリダへ行く」なんてことでも。「ママの希望は」と問うとさすがの「遺伝」で想定外の答えが返って来る)、彼の方は何もかもが受け入れてもらえない。ゆえにアランやデヴィッドについて話すのを躊躇し更に溝が深まることになる。それでも力の限り闘ったあと、ママは遂に息子にエドやアランへの愛について尋ねアドバイスをする…すなわち自分と息子を同じように見るようになる。その後の展開は屈指の結論だろう。