怪物


映画の序盤も序盤の、早織(安藤サクラ)の前で5年生の湊がペットボトルをぐじぐじやっている場面で不意に、例えば私が当事者である生理や妊娠の可能性につき、大ごとであると同時に大したことじゃない、その時々にどちらであるかを自分で決めることが大事なんだ、それをマジョリティは支配に利用するんだという、いつも思っていることが頭に浮かんだ。我ながらなぜこんな時にと思ったけれど、3部に至って背景が見えると適当だったように思う。

公立小学校の教員をすぐに辞めた身としては担任教師の保利(永山瑛太)目線の2部から動悸がして辛かったけれど(あんなことがあったわけじゃ全然ないけど想像がつくから)、子ども目線の3部はもっときつかった。これは子どもたちの苦しみの話であり、その一番の原因はそれこそ母親がふざけて真似する「もっちもち~」から作中始まる、予定されていること以外を排除しようとする大人たちの営みである。

子どもにとっての世界である家と学校を体現する早織と保利が嵐の中、嵐だからだが、手を取り合って湊と依里を探す姿にそういう話かと思うが(尤もこの二人も社会では弱者であるが)、その後に同じ時間が繰り返された上で先へ進むと物語の終わりは台風一過を駆けてゆく湊と依里という、子どもには無限の可能性があるとでもいうような、女性は誰もが輝いているという言い草にも似た、女性側の問題じゃないのに女性問題と言うのと同じ、当事者への転嫁に思われた。エンディングの音楽が誘おうとしている「感じ」には、君達は素晴らしいんだから頑張ってね、とでもいうような唐突かつ無責任な態度を感じてしまった。

『ぼくたちの哲学教室』にもよく表れていた、学校で行われることは全て家すなわち地域社会に持ち帰られるのが前提だということが本作では広義に描かれていた。子どもが生きる場では大人や子どもが持ち寄ったものが集積され広められている。諏訪湖の見える小学校の美術もよく出来ており見がいがあっただけに、新採(新任?)教師が17時に駅前で待ち合わせというのは無理だろう、図工の時間にあんなに教室を空ける教員はいないだろうなどと気になってしまった。どの文化の映画であってもそうだけど、伏見(田中裕子)の「校長先生はね、音楽の先生だったの」というやばい一人称や見ただけでむかつく「来客中」のフォントの選択など日本語話者以外にはおそらく伝わらないであろうのが残念だ。