恋するアナイス


EUフィルムデーズにて観賞、2021年フランス、シャルリーヌ・ブルジョワ=タケ監督作品。

主人公が「望みを自覚する」のはここでは前提であり、冒頭よりしばらく、アナイス・ドゥムースティエ演じるアナイスに私たちはその一つのあり方、発露を見る。好きなものだけを得るために行動する姿は気持ちがよく、自分の根もこれに近いかも、あるいはこんなふうに出せていたらと思う(私には『(500)日のサマー』のサマーに近いもの…時が流れての女性による表象のようにも思われた)。ガンが再発した母親につき、たまたま思い出したり言い訳に使うはめになったりで急に手紙を書いたり電話したりという現金さもリアルでよい(私なんて彼女より一回り以上年を取ってもそんな感じだからね)。

この映画の面白いのは「望まれる」側の存在の描き方。アナイスが恋することになるエミリー(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)は後ろ姿の写真を皮切りに口紅やランジェリー、声と映像、著作、そして街角での出会いと順を追って登場する。それは作中一人の時はほぼ走っているアナイスにも追えない、操作できないものであり、その間に彼女は相手をいわば消化していく。

「言って」
「何を?」
「あなたに望まれて私はここにいる、だから何か言って」

これほど「望む」「望まれる」を理解した上での熱い言葉があるだろうか、私にしてみれば最も「好きな人に言われたいこと」だ(そんなに好きになれる人に「普通は」出会えないが)。更に終盤には各々の対照的な「待つ時間」を経てふわっとしかし力強く、エミリーからアナイスへの、倍近い時を生きた女の知性による働きかけが描かれる。その後の番狂わせも愛しい。

アナイスの望みはまず好きな人との時間、端的に言って肉体関係であり、作中その頂点であるエミリーとの浜辺でのセックスシーンは一秒映るだけで何てつまらないセックスだろうと思わせる序盤の男の背中(ののっぺりさ)と対になっている。その異様なほどの丁寧さを振り返ると、スクリーンに焼き付けられたあの時が、エミリーに言われる「あなた自身を形にして残して」のもとになるのかもしれないと思う。