サイド・エフェクト




「なぜアメリカに?」
「向こうじゃ精神科医にかかるやつは病気だと思われる
 こっちじゃ応援される」


床に付着した(としか言い様のない)血を捉えたタイトルバックが終わると、物語は「三ヶ月前」へ。バックミラーに映る、口紅をひかれる唇。作中、ルーニー・マーラ演じるエミリーが「化粧」をする場面が二度あるけど、いずれの場面も、どういう気持ちだったんだろうと後々思い返すことになるのだった。


(以下「ネタバレ」あり)


私は「ドラゴン・タトゥーの女」のせいでルーニーが大の苦手、しかも本作じゃ彼女が私の大好きなチャニングを殺す!というので(だからというわけじゃないけど彼女に対する気持ちは覆らず・笑)、かなりの「色眼鏡」を掛けてるわけだから、他人がどういうふうにこの映画を見るのか分からない。いや、他人の見方なんて本来どうだっていいんだけど、この映画は、どう見られようとしているのかが全く掴めないから、他の人はどうなんだろう?なんてふと思ったのだった。
私の「色眼鏡」を抜きにしても、あからさまに「怪し」く見える彼女の「ほんとうのところ」は、「確信」とまでいかずとも容易に想像が付く。そんな映画は星の数ほどあるけど、本作は「分かって」いいんだろうかと惑ってしまい、落ち着かない。誰かの言動、加えて意図までカバーしたところで、その人物が何者なのかは「分からない」、多くの映画は「分かった」という態度を取っているだけなのだということに気付かされてしまう。手取り足取りの描写、エピソードが緻密に積み重ねられているのに、はっきりと断言はしない感じ。そこが面白い。


オープニングクレジットで4番目、「and」出演!のチャニング・テイタムはエミリーの夫のマーティン役。「マジック・マイク」とは正反対、白シャツの上に更にシャツを着込んだ囚人ルックでの登場。エミリーいわく「いつもスーツ姿」で、絵画を見るように私を見ていた男。出所時の、母と妻を両脇に抱えたスーツの後ろ姿に、あの下にあのお尻があるのかとしげしげ見てしまった(笑)
エミリーとマーティンの二度のセックスシーンには、どちらも違う意味での引っ掛かりを覚えた。一度目は「性急」なそれのよくある描写ながら、エミリーの横顔に早くも「ほんとうのところ」が透けて見える。二度目については、私としては、騎乗位が「終わる」時って、どちらか(大抵は男)がいくとか、疲れた?って感じで笑い合って一旦止めるとか、そういうもんだと思うんだけど、本作では、何をもって「終わった」のか分からず「妙」な感じを受け、そもそも映画の中のセックスって「そういうもの」だっけ?などと考えてしまった。考えたらエミリーの「せっかくセックスを楽しめるようになったのに」というセリフも面白い。
ジュード・ロウ演じる精神科医バンクスと妻とのセックス、というかセックスしようとする場面には、金持ちだけがああいうこと出来るんだよなあと思わされた(笑)この映画の根っこはお金、その部分が昔ながらの筋書きからの「現代」への主なバージョンアップである。


「女は早くから騙すことを覚える」なんてセリフに象徴されるように、本作のカタチは「古典的」なスリラー。「真実」が犯人によって一気に告白されるのには少々驚かされた。その「回想」シーンはまばゆいばかりの笑顔と厚い化粧に始まり、その異様さゆえに「真実」なのだと納得させられる。
直近の「マジック・マイク」などに比べると会話シーンもごくごく「まっとう」、終盤のバンクスとエミリーの駆け引きも昔ながらのスリルを味わえるけど、一番興奮したのは、バンクスの同僚二人が彼に高級オフィスを出て行くよう迫る場面。外側からの「真実」を何の言い繕いもなく放つのが最高。
最近観た作品だと「黒いスーツを着た男」のラファエル・ペルソナ同様、本作のルーニー・マーラに私は全く魅力を感じなかったんだけど(そもそも「女」のそれは私には想像するしかないんだけど)、どちらも昔ながらの筋書きでありながら、「それ」が無くても話が成り立つのが見ていて気楽で、「現代的」だなと思った。


パーティ会場で、エミリーの顔が、髪型のせいじゃなくアシンメトリーに見えた次の瞬間、彼女が鏡に自分の顔…半分は「普通」、半分は「歪んだ」顔を見るカットにはびっくりしてしまった。後で振り返ると、あれは本作の「トリック」(=彼女の精神が「歪んで」いるかのように見せかけている)とも言えるし、「その通り」(=「歪んで」いるかのように嘘を付く精神こそ「歪んで」いるのだと主張している)とも言える。いずれにせよ私としては手品に引っ掛かったようで、こういう瞬間の味わえる映画っていいものだ。