クイーン・オブ・アイルランド


EUフィルムデーズ2019にて観賞。2015年アイルランド、コナー・ホーガン監督作品。

同性婚を合法とするか否かを問う国民投票で勝利を収めた姿が始めとクライマックスに置かれていることで、これが平等を手にする(文字通り「手にする」)ために戦わなければならない者達の話だとはっきり分かる。知られた「パンティ」ではなくローリー・オニールとして戸別訪問する様子に「もしも負けたらダメージは大きい、なぜ私達の方だけ、あなた達と同じ権利をくださいと頼まなきゃならないのか」とナレーションがかぶるが本当にそうだ。反対派へ言いたいことはと記者に問われた彼女は「彼らはわけもなく恐怖を覚えているだけ」と口にするが、反対七万票、と聞くだけでもそうジャッジする人がいるというダメージを受けるじゃないか。

しかしこの映画にはパワーが満ちている。ドラァグについての映画は多々あれど、作中のパンティを見ていると私が「女装」をしてみたくなる。誰だかがsissyであることは強いんだと思わせてくれたと言っていたけれど、女の記号の数々がとても力強いものに感じられる。冒頭楽屋の彼女がこちらに語りかけてくるという作られまくった演出にふと「景気がいい」という言葉が脳裏に浮かんだものだけど確かに彼女ったらそうで、ローリーは「バブル全盛期の東京」に出てきて人生の二章目を始めるのだった。95年にダブリンに戻ると同性愛は犯罪でなくなっておりゲイシーンは盛り上がっていたとのこと。私が東京に出た頃だ。

「私の仕事ははみだし者としてものを言うこと」。本作ではパンティがものを言う姿をしかと見ることができる。「(町で物や暴言を投げつけられ)傷つきはしないけれども抑圧を感じる、私にいけないところがあるんじゃないかと考える、こんな思いをさせる皆を少し嫌いになる、でも今、ここの皆は好きよ、話を聞いてくれたから」とは冗談めかしているけれどそういうものかもしれない、ものを言う、話を聞くって。それにしても「ゲイじゃないのにゲイについてあれこれ言うな、ホモフォビアの被害を受けていないのにその何たるかを説教するな」とは私達がいつも思ってることじゃないか。女のことを男が決めている。

この映画におけるいわば真のラストは、「small townに育ったゲイにしか分からないことがある」(と聞いたらどうしても「Smalltown Boy」が流れた「BPM」を思い出してしまう)と言うパンティが(当初逡巡しながらも)生まれ故郷で開いたショーに集まり笑い合う人々の顔、顔、顔。皆の努力でここまで来た。少しずつがんばろう、と思う。