恋する遊園地


冒頭、「足」を持たないジャンヌ(ノエミ・メルラン)がエマニュエル・ベルコ演じるママに職場まで車で送ってもらう様子は、親子というより友達同士に見える。到着した遊園地は川を渡った向こう。その流れに「IT:chapter two」のグザヴィエ・ドランのパートがふと蘇った。しかし、病院に行って治療を受けるよう言われたジャンヌがバスの中で衆目に責められているように感じるなどマイノリティの苦悩があれど、映画は終わりに穏やかな川を見せる。

「私を愛していなかったから子どもが出来ると去った」実父と、血の繋がりの無い娘を尊重する流れ者の新しい父とを示し、「父へ」との辞で締められるこの映画は、そこから独立した母と娘が手に手を取って走り出すまでの物語である。作中の母は娘と「同じ」だからこそ「反対」になり得る存在。娘は「ママが男に求めるオーガズムを私にくれる」からジャンボが好きなのだと言う。「乗った人、皆げーげー言ってるよ」のアトラクションで快感を得た彼女は、人間の男とセックスした後に嘔吐する。

ジャンヌは上司マルクに教わった詩に救われる。「命無きものよ、お前にも魂があり、ぼくらに愛を求めるのか」。交流できるからこそジャンボに愛を感じるというのは、マルクの「ぼくも機械は好きだ、怒鳴っても何も返してこないから」(なんて「男らしい」理由だろう)との対比であることからしても倫理的な配慮に思われる。この辺りにはどことなく古めかしさを感じる。

印象的だったのは、ジャンヌがドアを開けた母の腹に貼られた腹筋マシンに呆れたり美容のために運動しているところへ反撃したりする場面や、母と男がセックスしている最中に脂肪吸引の映像を見ている場面。私には美容に気を遣うことへの反抗心の表れのように思われた。振り返ると裸で寝ていた彼女が飛び起きて白いパンツにジーンズを履いて出かける(母ならそんなことはしないだろう)オープニングも、地元の少年達の嫌がらせが「女のくせに」身なりに気を遣わないことに対する揶揄であることもそれを示唆しているように思われる。物との愛には少なくともそれよりも肝心なことがあり、彼女はそこに安らぎを感じているのだと。