わたしはヌジューム、10歳で離婚した


イスラーム映画祭4にて観賞。2015年イエメン=UAE=フランス、ハディージャ・アル=サラーミー監督作。

上映前に流れた観客へのメッセージで監督が「子どもが彼らを見くびっている大人に対し若さを武器に抵抗する姿を描きたかった」と言っていたので、オープニングタイトルに星が散りばめられるのにいわゆる子どもらしさを表しているのかと思いながら見ていたんだけれど、次第にその星の意味するところ…名前の事情や識字の問題が分かってきて涙があふれてしまった。

始まるや、女性はあそこにお金をしまうのか、タクシーはああして呼ぶのか、裁判所ではジャンビーヤを預けるのかなどイエメンの興味深い風習が立て続けに映し出されて刺激を受けるが、一番は、母親の「名前は星(ヌジューム)にしましょう」に「いや、隠された(ノジュオド)にするべきだ」と反対する…にも関わらず数年後には娘を慈しむように肩車して歩く父親の姿。彼らはそうなのだと思っても混乱した。後にそれこそ目を背けてはいけない要素なのだと分かる。

この映画が描くのは、少女ヌジュームの古い世界から新しい世界への必死の逃亡である。「黒い絨毯」の先の都会では男性が「女は物ではない、金では買えない」と歌い、成熟した女性が(実際にはどうであれ)少女には憧れの対象であるドレスで結婚に臨む。児童婚によりさらわれた先ではそうした都会どころか一切の外との繋がりが断たれ、洗浄場なんていう内に閉じこもるしかなくなる。そこからの逃亡は、映画が彼女に与えた翼、見る者に知恵と勇気と希望を与える翼と言ってもいい。元となった本の「わたしはノジュオド(隠された)、10歳で離婚」というタイトルを映画化の際に「わたしはヌジューム(星)、10歳で離婚した」にしたところに監督の気持ちが表れている。

主題は女を物扱いする男、すなわち被告席に立つ二人の男の糾弾である。作中では彼らの「ヌジューム(を始めとする女達)を心配するがそれは自らの名誉のためである」という姿が執拗に描かれる。少女が語った出来事の裏で何が起きていたのか明かされる作りが映画としても面白いが、知ったところで判事の「辛さは分かるが娘にしたことは許されない」に尽きる。法廷にヌジュームと弁護士の女性以外に男しかいないのは、これがまず誰の問題であるかの表れである(日本でも最近ようやく言われるようになってきたことだ)。勿論「知は力」とは全ての人にとってだが。

パキスタンの「娘よ」にトルコの「裸足の季節」、ジョージアの「デデの愛」など(これらは全て女性監督の作品だ)、美しい自然や人工物に一瞬うっとりしても、望まぬ結婚が描かれていると私にはもう美しさを感じる気持ちが湧いてこない。本作も同様だった。監督が「子どもは一生消えない傷を負わされる」と言っていたけれど、ヌジュームが判事の娘の弾くピアノの音色に自身が受けた暴力を思い出すのだってそういうことだろう。ここにセックスはない、レイプだけだ。世界にはセックスをしたことがない…それだけならば幸せで、セックスではなくレイプの体験しかない女性がたくさんいるのだと思う。