クエシパン 私たちの時代


マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバルのオンライン上映にて観賞。2020年、ミリアム・ヴェロー監督。北アメリカの先住民インヌ族の少女二人の物語。

「二人の家を建てよう、海辺に、ばかでかいやつを」。映画に出てくる「うちらの家を持とう」とは大抵、現実はそう単純ではないという反語的場面なわけだけど、本作でもそう。親友宅で「家に帰りたくない」と言っていた女の子は後日親戚の家に送られる。親友は歩いて訪ねて行く。ずっと一緒だと血の誓いを交わした二人がその後も「自分の家」を求めながら生きているという話である。

シャニスが「うちらの家」についてひとしきりはしゃいだ場面の後、ミクアンの家で兄を含めた三人が過ごす時間は幸福に満ちている。しかし流し台はぐちゃぐちゃ、調理の途中に火事まで起こしてしまう。ひと眠りの後に帰宅した母親に叱られるところで「夢」は破れる。ここはまだ子どもである彼女達の真の家ではない。自分で見つけねばならない。シャニスはおばさんち嫌さに同じ先住民の青年と同居している。ミクアンは夢を実現できる場所がどこかを探している。

ミクアンの家でインヌ語の分からない「白人の男の子」のボーイフレンドが一瞬マイノリティになる場面など、言葉に関する描写がやはり目を引く。彼女がフランス語での作文や話し方を学ぶ様子も面白い(前者は「白人」に混じっての講座、後者は先住民のみの授業)。「的確で力強い」文を書くと講師に称賛されたミクアンはやがて作家になる(その著書が本作の原作)。これは言葉が、文学が人を繋ぐという物語でもある、それぞれの「家」がどこであろうと。

インヌ族の人々は実際の人々によって演じられており、若者達が自分達の文化と生活の快適さとどちらをとるか話し合う場面には昨年見た「アイヌモシリ」を思い出した。一方でシャニスに暴力を振るうパートナーが涙する場面には彼らの多くが学習や就職といった場から追いやられているという社会的な問題が匂わされており、痣を作りながら「訴訟だなんて大げさなことはしない」と言うシャニス含めそうした場に参加できない者を救うにはどうしたらいいかと考えざるを得ない。その答えを、この物語は「物語」としているわけだけども。