ティル


オープニング、母と息子二人だけの場には幸せが満ちているが旅行の買い物に車を降りる時、外の世界に出る時が近づくと母親メイミー・ティル(ダニエル・デッドワイラー)の顔に不安の影がさす。映画の終わりのスピーチで彼女は「1ヶ月前は南部の黒人の話は他人事だと思っていました」と語るが(それは「一人の問題は皆の問題」と訴えるためだが)それでも肌でもって痛いほど差別を知っている。しかしその無邪気さをなくすまいと「優しさ」で育ててきたエメット・ティル(ジェイリン・ホール)は悪意の存在を知らない。CMソングを歌い踊る姿からは、世の楽しそうに見えるものを全て真似てしまう性分が分かる。

メイミーが体験する全てがある意味では予想通りなのは、70年後の日本であっても似たことが跋扈しているからだろう。被害者である彼女が「尻軽」と非難され大衆受けを考慮せねばならない。黒人同士で、例えば息子の死を知ったばかりのメイミーが活動家に「これを法案成立の機会に」などと言われたり(彼女は「息子は事件じゃない」と返す)、白人に逆らったら生きていけない「現地民」である大叔父や証言者との間に齟齬が生じたりする。彼らはそれを話し合いで乗り越える。メイミーの言う「皆の問題」だから。そうそう出来ることじゃない。こういう時に物を言うのは…解決する唯一の手段が金であるというのも現在まで続く差別の表れである。

全編に渡って怒りと辛さで息苦しくなる中でも裁判の場面がきついのは、正義が行使されるべき場だからである。最後にメイミーは「現地のcriminal justice(刑事司法)は息子の死を何とも思わなかった」と語るが、これは正義の不在を思い知った彼女が活動家となるまでの物語である。法廷では検察でさえも握手を拒みポケットに手を入れたまま話す。大叔父いわく「人間と称する二人(ロイ・ブライアント、ジョン・ウィリアム・ミラン)と同じ類」の陪審員が居並ぶ絶望感(これだって今に通じる)。彼女が「息子にどんな注意をしたか」を証言する場面は圧巻で、白人の前では小さくなって何か問題が起これば躊躇なく跪くように…って正義が存在していれば何でそんなことが必要だろう。ここでこんな話をしていること自体がおかしい。

エメット・ティルが何をしたかはこの話の肝ではないのだから、「口笛を吹く」(的な言動)が侮辱を意味する現在(本当は何十年も前からそうだったんだけども)、行為の持つ文脈が全くもって異なるこの映画の宣伝であっても「ただ口笛を吹いただけで」などと強調するのは無神経である。映画において1955年のミシシッピー州で「口笛を吹かれた」キャロリン・ブライアント(ヘイリー・ベネット)もまたその態度から人を人とも思わなかったことが分かるが、後の晩にトラックの窓越しに少年を見るその顔から何かを読み取ろうとしても私にはダメだった、できなかった。