ライ麦のツノ


東京国際映画祭にて観賞。2023年スペイン/ポルトガル/ベルギー、ハイオネ・カンボルダ監督作品。

出産の場にいる四人の女の顔を順に丁寧に映していくオープニング。父親と思われる男性も入って来るが幼い息子と共に姿を消すのがその後の展開を予告しているようだ。出産、中絶、セックスがそれぞれ時間をかけて描写される。女性器の絡むそれらは繋がっており似て見えもするが同時に全く異なるものであることが分かる。しかし冒頭「自然に任せて」と言ってくれる助産婦がいなければ「自然に任せる」ことなど無理でありこれが人間なのだ(過酷にも一人で産まざるを得ない人が今でもいるが)と思っていたのに映画の終わりが長々映される牛の親子の姿(からの…)だというのが私にはちょっと理解し難かった。

1971年のスペイン、主人公マリア(ジャネット・ノバス)の「でもどこへ?」が心に残る。警察から逃げなければと友人に言われた彼女は荷物をまとめて一人夜の小舟に乗る。かつてハンガーの針金で堕胎した、その頃の自分と同じ年の少女のために「ライ麦のツノ」を都合し手を握って励ました女の居場所がこの社会にはない。「隠れずに生きられる」と言われるポルトガルの村では女達が助けてくれる、というか助け合って生きている。妊娠させた男が女にとって存在しないという描写は正しくもあり正しくもない、すなわち文脈によるが、ここでは妊娠と直接関係なくとももう少し男に色々を負わせて欲しかった。

何に時間を割いて描写しているかに特徴がある映画だ。友人の伝手で頼った居酒屋の女性の登場時の水色のアイシャドウに、「夜の仕事」(との言葉が後に出てくる)ゆえのメイクだなと思っていたら、後に彼女は国境を超えるマリアに「見逃してもらえるから」とそれを施す。男に見逃してもらう、あるいは「目をつけてもらう」ための細工を、辿り着いた先の「アナベラ」もしており、彼女は「黒人だから」そのメイクをやめることができない。これには派手な格好の女が生活苦のわけがないなんて未だ言う馬鹿を思い出した。