あのこと


主人公アンヌ(アナマリア・バルトロメイ)と親友ブリジットが男を求めての外出前に胸を大きく見せようと下着に細工しているオープニングが秀逸。女にも性の欲望があり(ない女も勿論いようが)、自身の体を性的に目立たせるのがセックスに近付く最も流通したやり方であると語ることで、だからといって妊娠を受け入れなきゃならない道理はないという主張がなされている。
アンヌがいつどこで誰とセックスしたか、映画を見ている私達に知らされないのも重要だ(作中一度だけはっきり描かれるセックスは、彼女の意思による、なるほどと思わせられる状況においてである)。『17歳の瞳に映る世界』でも主人公を妊娠させた相手について殆ど語られなかったものだけど、今妊娠しており中絶したいということこそ切実な問題なのであり、物語はそれ以外に無闇に焦点を当ててはならない。世の中はすぐそちらに目をやろうとするから。

ブリジットの「試験に落ちたら来年はトラクターに乗っている」とのセリフやアンヌの実家でのやりとりから、とりわけ労働者階級の出身である彼女達は大学生という立場を降りれば望まぬ肉体労働に就かねばならないのだと分かる。女子の脱落の理由は妊娠であることも多く、それにより学生の人数が年毎に減っていることも示される。
自称「世界一の耳年増」のブリジットは「毎晩いく夢を見てる」と実演して見せるが、彼女達にとってそれと表裏一体なのが、不安の表情で見ていたアンヌが自室で縫い針を手にする時の、「自己責任」の後にベッドで悶える時の顔なのだ。それを体感せずとも「知って」いるから、多くの女が欲望を実行に移さずにいる。冷蔵庫やシャワーを共にする女子寮での暮らしが「皆と同じ」でなくなればより厳しいものとなるのは一種の比喩であり、アンヌを目の敵にしているかのような同寮の学生らの言動はルートから外れることをとにかく恐れているからなのだ。

校医から電話帳で見つけた婦人科医、「流産」か「中絶」かを決定する医師まで、加えて文学部の教授(「女子はたいてい文学部」であって「文学部の学生はたいてい女子」ではないにせよ)、中絶経験者の女子と女子を繋ぐのも全て男。実際にはどうだったにせよ、これらの描写は当時から、今もなお、「選択肢がない」者は表に出られず連帯もできないことを表している。男の中には普通の者もくそな者もいるが、例え前者に「同情」されたところで腹の膨らみにはくその役にも立たない。中絶とは個人ではなく社会の問題であり、人生を選択によらず運に任せるしかないのがいかに残酷なことであるかが全編に渡って強く訴えられている。
アンヌは「他の女子がうるさいのは羽目を外したくてもそうできないから」、親友のエレーヌ(ルアナ・バイラミ)は「私は運が良かっただけ」と確認し、この出来事を通じて女同士の間に新たな繋がりが生まれるが、それはアンヌのあまりに、あまりに孤独な闘いに比すれば全く小さすぎる。