「フランス映画を作った女性監督たち 放浪と抵抗の軌跡」にて観賞。
▼『スペインの祭』(1919年ジェルメーヌ・デュラック監督)は元ダンサーの女を愛する男二人の決闘の間に当の女は他の男と踊り続けるという話で、役名「気が狂った老婆」が実に意地悪でよい。村祭の賑わいを遠くに聞きながらバルコニーに横たわる女性が、ふと招き入れた男性に「可愛い女の子が踊るダンスホールもありますよ」と言われて可愛らしいワンピースに着替える。祭りの勢いで馴染みの職場でも踊り続け、流れでセクシーな衣装に着替える。この作中二度の着替えシーン…着替える場面そのものが楽しかった。
▼『太陽と影』(1922年ミュジドラ監督)ではスペインの村の人々が先とは少し異なる雰囲気で生き生き映っており、冒頭など現地のドキュメンタリーのようだった。いずれもミュジドラが演じる女二人の物語で、地元の娘と「異国の女」が華麗な技を見せるスター闘牛士の男を宝物として取り合う。「どこからともなく現れて最高級品を手に入れる異国の女」はホテルでの登場シーンからして表情や動きが魅力的。男が致命傷を負うところは描かないが女の方は共に傷つくシーンがあり、ミュジドラがミュジドラを殴り倒す場面なんて単純なんだけど面白い。
▼『微笑むブーデ夫人』(1923年ジェルメーヌ・デュラック監督)については、ブーデ夫人の心中を表す技法の数々は、ピアノの向こうにちんまり登場する彼女の趣味(手にしている譜面はドヴィッシーの「雨の庭」)を馬鹿にして自分が外出する時にはピアノに鍵を掛けるというクソ夫の現実の描写あってこそ活きるものだと思った。デートゆえ夜にお暇を頂きたいと言いに来たメイドの背後に「素敵な男性」を見る画が忘れ難く、「あんたはブーデ夫人じゃないからいいよね」とでも言おうか、ともあれ夫人の、ひいては映画全体に漂う孤立感よ。解き放った髪には突然の豊かさを見た、ブラシをかけるのはそれをなだめて押さえつけているようだ。
▼『魔王』(1931年マリー=ルイズ・イリブ、ジャン・マルゲリット監督)はあれやこれやを駆使して描かれる魔王からの逃亡劇。どアップのヒキガエル(実は魔王)の目をくりぬいた中に馬でゆく父と息子が映し出されるなど今でも全然見る画。一軒の農家の夜からひと気のある町の朝まで、妖精の歌や踊りのなか馬で逃げるという激しい道のり。太鼓を叩きながら追ってくるのが怖くて、二重露光に慣れ切った目のせいか「白紙委任状」に見えた(もっとずっと後の絵)。「美少年」というキャラクターはそれまで映画に出てきたことはあったのだろうかと思った。