ボヴァリー夫人とパン屋



高校時代「ボヴァリー夫人」をくるったように読んでいたこともあり、邦題を目にしてどんな映画だろうと思っていたら、「ボヴァリー夫人」をモチーフにしたグラフィックノベルを下敷きにしているんだそう。見てみたら、超「フランス映画」だった(「フランス」のパロディという意味もあり)。バゲットみたいに消化がよくて、雑種の犬達が、集中力をそがれるくらい可愛い。


ボヴァリー夫人」を最後に読んでから20年、すっかり忘れたと思っていたけれど、冒頭の「引用」に、あああの箇所だと思う。しかし画面に映っているのはそのシーンから程遠い、真っ白いぷにぷにのパン生地をこね、形作り、釜に入れる初老のパン屋のマルタンファブリス・ルキーニ)の姿。場面が替わると、そのパンはなぜか真っ黒に焼き上がってしまっている。それからタイトル、「emma Bovery」と出てから「G」が加わり「ジェマ・ボヴァリー」となる。ジェマを演じるのがジェマ・アータートンというのは面白い(漫画原作という点も含め、アデル・エグザルホプロス主演「アデル、ブルーは熱い色」を思い出した)


私はファブリス・ルキーニってそう得意じゃないんだけど、逆に、彼がチャーミングに感じられる映画はお気に入りになることが多い。冒頭、家族の食卓で彼が「隣に引っ越してきた人達の名前を知ってるか?」と話す顔の妙に惹き込まれた。しょうもないんだけど愛らしい。ゲーム好きの息子に対して「戦争ゲームより麻薬の方がまし」、息子のにやりとした顔でこの一幕が終わるのがいい。ラストは同じような場面が繰り返され、本など読んだことが無いらしき息子に文学好きの父がしてやられる。そしてあの馬鹿馬鹿しい音楽(笑)


マルタンいわく「ボヴァリー夫人」は「平凡な物語だが素晴らしい」、主人公エマは「平凡な女なら退屈しない」。冒頭で「どこに住むかは重要なことだ」と言うのも、「ボヴァリー夫人」の読者ならそうだろう。作中の人々は様々な理由で(「ボヴァリー夫人」の舞台である)ノルマンディーに居る。セレブ流の田舎暮らしを追求する痩せた女、パリじゃ勉強に集中できないからという金持ちの息子、そして「ここなら穏やかに暮らせると思っていた」マルタン。「どこに住むか」をそれほど重要としない人間は、「ボヴァリー夫人」に関係のない人間であるとも言える。私は重要としてるから、関係ある(笑)


マルタンが夜中の二時にこねくり回して口にするクロワッサンが立てる、異様に大きな音。一方のジェマは、一時はセレブ志向のご近所さんに影響されて食餌制限していたらしいのに、「情事」にはまってからは、マルタンの「妄想」から栄養を摂取しているかのように彼の店でパンを買いまくる。夫が留守なのにマドレーヌ4つだなんて、事後に食べるために持って行くに違いない。ちなみに本作のジェマ・アータートンは「セックスシーンでも乳首を頑なに見せない」事例かと思いきや(私は頓着しないけど、そういうの話題になるから…)出し入れしているうちに「ブラジャーを付けているのに乳首が出ている」という、現実じゃともかく映画では珍しい状態に(笑)


ジェマとチャーリーのボヴァリー夫妻は「英国人」。ジェマの方は特にフランス語がそう上手くなく、引っ越してきた当初は知らない単語の数々に口ごもる。終盤、かつての恋人に連れて行かれた「評判の店」で「今日のことは後悔している、これで終わり」、その後に夫に「I love you」といずれも英語できっぱりと喋るのが印象的。更には少し上手くなった?フランス語で、マルタンに「私は自由な女、『ボヴァリー夫人』じゃない」と言う。その後とあることがあってからの、作中唯一ルキーニを遠景の中に捉えたカットには、「物語」が意思を持って不意に自分を襲った衝撃が表れている。


端的に言えば「エロ親父が若い娘さんについてあれこれ妄想する」話であり、男は「見る」側、女は「見られる」側なのに全く不愉快にならないのは、ジェマが「普通」に描かれているから。どこがどうとは説明できないけど、見ていて「対象」じゃないと分かる。