サスペリア


前にも書いたように、私が一番恐ろしさを感じる映画の暴力シーンは「ロボコップ」の冒頭で、その理由は取り返しのつかなさが鮮烈に描かれているからなんだけど、この映画にもそれがあった。あの場面には素晴らしく心動かされた。あれに対するのが最後の「マザー」の救いなんだと思った。

冒頭、クレンペラー医師(ティルダ・スウィントン)の元に飛び込んできたパトリシア(クロエ・グレース・モレッツ)はマルコス・ダンス・カンパニーについて「始めはよかった、パーフェクトなバランスを教えてくれた、パーフェクトな睡眠の取り方とか」と口にする。ブラン夫人(ティルダ・スウィントン)は指導中にも「パーフェクトなバランス」との言葉を使う。バランスを取るためには犠牲が必要なのだとも。
ルカ・グァダニーノ監督は「ミラノ、愛に生きる」でティルダ・スウィントンをperfectじゃない人として使っているのが印象的だったから、この映画でもそうなのではと予想していたら、やはりそうだった。彼女が彼女と一見して分かる容貌で演じるのは、作中一番ゆらぎのある、すなわち常にパーフェクトなバランスを取るために動いている人だった。

この映画の最も分かりやすい比喩の一つは「ジャンプ」で、「矢は常に引力を感じているが飛び続けなければならない」と指導するブラン夫人が早々に跳ばねばと考えているのに対し、スージーダコタ・ジョンソン)は時を見て跳ぼうとする。「40年前にどんな思いをしたか若いあなたには分からない」と言う夫人にとって抵抗とは恒常的に行うものだが、スージーには時機を選ぶ余裕がある。
スージーを何度も高く飛ばせるブラン夫人の後ろ姿を大きく捉えた画面が衝撃的にエロい。これは彼女達の間の、愛ではないが何かを感じる映画だと言ってもいい。終盤ブラン夫人(の心)を迎えるスージーの寝姿の完璧さにも驚いた(終盤、役者二人がベッドの主と訪問者の立場を反転させる場面があるのも面白い)。

全編に渡り外に出たくない天気が続くが、ガールズは「ブラン夫人が女性の経済的自立の大切さを重視しているから」と無料で部屋に住むことができ、「外」の雨風に晒されなくてもよい。SNSなどで女子校に通っていた人があの頃こそ自由だったと語るのをよく目にするけれど、あの館にはそういう意味合いもあるだろう。
しかし真のマザーが姿を現した後のエンドクレジット前のラストシーンの陽気に、ブラン夫人の「美しさや陽気さの時代は終わった」を思い出し重ねると、今は違うやり方があるのではとこの映画が言っていることに気付く。抑圧下を生き抜いた夫人は女だけの館を作り実際に皆を守ってきたが、女達のたまりにたまった声を蓄えた新しい、あるいは真のマザーには外を陽気にすることができたという話とも言えないだろうか。

採尿シーンでバスタブに物干しが置かれていたのが印象的だったけれど、この映画には幸せな生活感がある。職員達の台所の場面も楽しそうだ(作中初めてあの場所が映るのがあの場面というのはセンスがよすぎる)。とはいえ彼女達が遊びに行くと外食するのはやはり片付けをしなくていいからだろうなと思う(笑)
最後の片付けシーンにはふと、twitterのTLで今は死んだようなことになっていると知った林真理子の何十年も前の文章の一部を思い出した。女は自慰のための空想(だったか?)をするにも前後のことを設定しないと落ち着かないと。このセックスの後に面倒が待っているとなれば楽しめないのだ。誰がするんだという話である。