ストレイ 犬が見た世界


「人間は不自然で偽善的だから、犬に学ぶべきだ」というディオゲネスの言葉で今どき始まるとは外連あふれる映画である。でも嫌な外連じゃなかった。どのみち犬が主役の映画などと言う時点で不自然なんだから。
トルコでは1906年に行われた野犬駆除に反対する市民運動により野良犬の捕獲や安楽死が禁止された…との旨の文章に、幾ら何でももう少し情報が欲しいと思いながら見始めるも、そのうちこれは、殺処分がなければ犬と人間はこんなふうに公の場を共有するのだという一つの例の提示のように思われてきた。人間の作った花壇(「不自然で偽善的」の例とも言える)を踏み踏みそこに座り込む本作の主役、野良犬ゼイティンで映画が始まることからもそう取れる。映画からは政府の政策は殆ど読み取れないけれど、耳にタグを付けるなどの管理をある程度は行っていること、終盤挿入される「政府に追いやられても…」との文章からとはいえ煙たがっているらしい?ことが推測できる。

冒頭ゼイティンが階段をひょいひょい上っていく後ろ姿を捉えたカットに、これは犬を人間みたいに撮っている映画なんだと実感する(文にするとそりゃそうだろうって感じだけども)。それゆえ、続く作中初めて他の犬と対峙する場面が超面白く映る。
同じイスタンブールを舞台にした「猫が教えてくれたこと」(2017年アメリカ)には再開発が進むと土が消え猫が用を足せなくなるというセリフがあり、この猫らの領域は土があるところばかりじゃないのではと思いながら見たものだけど、本作には土のエリアがそもそも出てこない上に(「猫」にはなかった)排泄シーンがきちんとある。公園でうんこをしたゼイティンを中国人女性二人が「誰が認めてるの?」「言葉が通じないよ」などと嫌がる場面により、これが「犬の殺処分がない国」の話だということが強調されている。しかし、舗装された道端で子犬のカルタルがうんこをする場面然り処理の描写はなく、うんこの行方は分からないのが残念だった。

Netflix製作のドキュメンタリー「ドッグ・ストーリー あなたは一番の友達」に、シリアからベルリンに一人逃れた青年が友人に預けてきた飼い犬と再会するまでを描いたエピソードがあった。犬が「家族」だからというのに加え、シリアに残しておくと爆撃の他に政府による毒餌で死ぬ危険もあるからとの理由であった。印象的だったのはその友人が犬を散歩させていると憲兵に気に入られ奪われそうになったという話で、要は殺すも可愛がるも人間次第というわけだ。この分かり切った事実が大変恐ろしかった。
本作でも犬二頭の後ろでおじさん達が「こっちの犬はきれいだから飼ってもいい」といったような会話をしている。愛情の対象として犬を求め寝食を共にする(後に奪われる)シリアの少年達についてそういうことはないわけだけど、彼らは道路で寝ていた罪で逮捕されてしまう。弱い立場の存在はされるがままなんだと思わざるを得ない。この映画では野良犬と難民とが重ねられているが、それは公の場のうちでも辺境にしか存在できないということの表れなんだろう。