セメントの記憶


この映画のオープニングの空撮からは、自由ではなく着地する場を失ったような不安を感じる。それは当たっている。昼は高層ビルの建設現場で働き夜はそのビルの地下で眠るシリア人移民労働者の心境は、作中のナレーションで端的に説明される。「12時間は都市の下、12時間は都市の上にいると思っていたが違っていた、ベイルートは24時間自分の上にあった。上から都市を見ても自分には何も掴めない」。

高所作業を終えた彼らが降りてくると、予告編にも映像が使われていた大きな注意書きの幕が映し出される。「シリア人労働者の夜7時以降の外出を禁ずる、違反者は罰に処す」。地に足を着けることはこれと引き換え、つまり彼らは地に足は着けられない、そこに生きてはいないというわけだ。

指示や注意を受けるといった場面が無く労働者しか映っていないため、働いている時の彼らは何をすればいいのかというデータを注入されたロボットのようにすら見える。それに対抗するのが、出勤前におもちゃのような鏡で身だしなみを整える姿やリフトに乗る時の目つきなどだ。あれは強烈に生活を感じさせる。

映画は「dedicate for all workers in exile」と終わる。「衝撃と畏怖」は「数字を見れば全てが分かる」と始まり終わったものだけれども、本作に出てくる数字からすると、ベイルートで働くシリア人移民の置かれている環境は実に非人間的だがニュースからして日本に来ている外国人労働者は更に非人間的である。どんだけだという話だ。彼らはその国の国民とは違うレイヤーに生かされているので、意識しなければ見えないのだ。