苦い銭



オープニング、ソファに並んで座った身内のうち、梨の味が薄いだのと話しながら食べている少年の姿に、大正生まれの親戚が「かんたらす」という言動をしていたのを思い出した。果物の汁気だけ味わって吐き出すことで、子どもの頃の私はその言葉も行為も怖気がたつほど嫌いだったものだけど、あれは果物の味が薄い時の食べ方だったのかと初めて気付いた。


家族のやりとりを聞いているうち実際には幾つなのか分からなくなった、「年齢を上に申告しておけばよかった」と言う少女シャオミンの、眉や髪の整え方が堂に入っているのが目に付いた。いかにも手慣れている感じで、もう「やっていける」のだと思わせる。見当違いかもしれないけれど、スマホで動画が見られるからああした技術も短期間で身に付くのかなと考えた。出稼ぎ先で落ち着いた従姉妹のユンチュンの部屋で、豊かな髪を長々とブラッシングする場面がいい(まだやってるの?と言われる・笑)


シャオミン達がバスに乗る姿に、「三姉妹」の終盤、このような服はどのような経路でもってここに辿り着いたんだろうと考えたことを思い出した。その後の列車のくだりには、「めちゃくちゃ遠いんですね!」と見知らぬ隣の人に話しかけたくなってしまった。思うにワン・ビンのこんな映画こそ「発話可能な上映回」があってもよいのではないか(まあ結局私も声、出さなそうだけど・笑)世界の皆がどう思うか、その場で共有したいから。


映画は冒頭出発する三人を皮切りに「主人公」が次々と移り変わっていくという形。以前にいわば「脇役」あるいは「背景」的に映っていた人物に引き継がれてゆく。姿でなく会話に登場していた場合もあり、姉妹の会話に散々出てきた夫アルヅが初めて映る画などは鮮やかで楽しい。計算されつくしているんだろうけど、この映画を昔の劇場のように入れ換え無しで、気が向いたところから気が向いたところまで見たらどうだろうともふと想像した。


出稼ぎ労働者の暮らしは、慣れることが出来ず一週間で家に帰った少年シャオスンによれば「仕事して食べて寝るだけ」、同僚によれば「労働時間は12時間以上」「夜の11時に帰れればいい方」だが、映画は「仕事して食べて寝るだけ」以外の時間を見せる。大袈裟に言えば、彼らが「それだけ」であることに知らず抵抗している時間。食べるにしても他の人の部屋で喋りながら立ったままうどんをすすったり、夜更けに帰っても布団に入らずふらふらしたり。そもそも忙しくとも不眠気味で眠れないということだってある。


彼らが「仕事して食べて寝るだけ」と言う時、それは「仕事して、食べて、寝る」ということを表している。つまり別々にしか出来ない。例えばデスクワークなら、仕事しながら食事をとることもあろうし、5分くらい寝られるかもしれない。それがいいとか悪いとかじゃなく、彼らはそうじゃない労働者なんである。ほんのわずかな対価で自分の時間を売って生きている。


印象的だったのは、一段落ついて部屋に戻った後に社長に呼び出され仲間が出て行く中、食事もしていないのにまた仕事なんてできるかと一人残った中年男性ホアンの姿。酒とギャンブルですっからかんの彼は、結局は仕事場へ行って皆にしつこく絡む。あの気持ち、私にも分かる。彼の立ち去る工場の一階が、映画の始めに見た時とは違って私にさえどことなく懐かしく、「ホーム」のように感じられたのだから恐ろしいものだ。