素敵な歌と舟はゆく/月曜日に乾杯!


新作公開を控えてのイオセリアーニ監督特集にて観賞。もっと「今」から「遠い」、古いものがいいかなとも思ったけど、時間も合ったしセットで見た。例えば「出ていく(帰ってくる)者を高所から見下ろす」など同じ「事」が繰り返されるが、その「意味」は違う。二作共に、朝、妻が夫の「洗車をする」という描写があり、それが「うまくいっている」ことを表しているんだけど、そういやうちは父が母の車を洗っていたなあと思い出した。それにしても、今はもう、このような、色々なことがある、というような映画は嫌になってしまった(敢えて「表層的」に描いているのであってもね)



▼「素敵な歌と舟はゆく」(1999)は雨の中のパーティ(の裏側)に始まる。延々と続く「シーン」の数々を、さぞかしリハーサルを繰り返したんだろうなあと思いながら(あの「技」が失敗したら撮影、一からやり直しだよなあ!なんて感嘆しながら・笑)見るうち、変な言い方だけど、冒頭からしばらくずっと朝が続いているような、妙な感じを受ける。陽が照ったり雨が降ったり、時間は進んでいるのに。でもってこんなのんびりした朝でも、私はやっぱり朝が嫌いである。次の朝が来て、ああ一日経ったのかなどと思っていると、終盤ふいに時が進む。息子のグラスを回す「技」の元が分かったり、雨の晩に外壁をよじ登って帰宅していたメイドがロッククライミングをやっているのはいつからだろう、なんて疑問が沸いたりというのが、時の流れによってよりロマンチックに感じられる。


先日ポーランド映画祭で見た「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ラブ」では、順に描かれる四人の女のうち、最後の中年女性が部屋で鳥を飼っていた。「素敵な歌と舟はゆく」では、実業家の妻が大きなコウノトリを飼っている。この映画には他にも多種多様な動物が出てくるし、この鳥は何かの「象徴」のようだけれども、ふと「鳥を飼う」とはどういうことかと考えた。何か、飛べさえもするものを自分の領域に置いておくことで、世界を支配しているかのような、そんな気持ちになるのかもしれない。最後のパーティでこの鳥が檻に入れられている(やがて開けて逃げ出す)のは、夫が大人しくなったからだろうか?でもってこうしたことの「逆」が、「女の裸」と走り続ける(=止まっている)鉄道模型がある夫の部屋かなとも思う。女がああいうふうに「子ども」でいるなら、あそこには何があるだろう?


▼「月曜日に乾杯!」(2002)は中年男ヴァンサン(という名前を私が知るのはずっと後のことである)の「いつもの一日」に始まる。家を出て工場で働き家に戻り、寝る。どうしたって、それじゃあ家族の方はどうだろうと思ってしまうものだけど、彼に負けず劣らず誰も楽しそうでない。唯一それほど乾ききっていないのは、その母親とまだ幼い息子である。夜、孫が祖母のベッドで本を読んでもらっていると、階上の夫婦の部屋から妻が立てる大きな音が聞こえてきて(この映画の中の音はどれも神経を逆撫でするくらい大きい)、二人はまたかと呆れる。考えようによっては、この年まで頑張らないと楽しくなれないのか、あるいは「性別」が関係なくなるまで楽しくなれないのか、とうんざりする(この映画の中の社会では男女の役割がはっきりしており、「外」で仕事をしない女の仕事は「仕事をしていない時の男の世話」である。ヴェニスでの友の家での夜なんて地獄のようだ)


ある朝、ヴァンサンは多くの「仲間」と共に通勤のバスを降りるが、門でタバコをいつものようには手放せず、工場に入らない。彼が小高い丘に上って唾を吐くと場面が替わり、カメラが家の朝の様子を映し出すところから、映画は俄然面白くなる。台所に立つ妻(こちらの名前は最後まで出てこない)の横顔に、初めて彼女の「顔」を見てはっとする。しばらく「彼の居ない間の人々」が描かれる。彼らの「連鎖」に対し、ヴァンサンだけが独りである。しかしやはり誰も楽しそうではない。幼い息子が、歯磨きしたくないために歯ブラシをただ濡らして置いておくと、母親はそれだけを確認してよしとする。磨いたか否かではなく濡れていることしか見ない。その悪気の無い怠慢(それは彼女だけの問題ではない)が、色々なことの元凶なのではないかと思わせる。


ヴァンサンは死期の迫った(ようには見えない)父親を経由して、まずヴェニスに赴く。水辺に「パスタ」や「カプチーノ」のイラスト入りTシャツを売っているような「観光地」である。これは「労働者」が「観光」をする映画なのだと思う。しかし「観光地」にも生活があるということも、彼が到着した時から所々に描かれている。現地の新しい友人は、やはり小高い屋根の上から「観光者には見えない」景色を見せてくれるが、翌朝、ヴァンサンは彼が「労働者」となる姿を見送る。ふと、都会で「女の仕事」をしてネズミと暮らし、彼に「まだ郊外に住んで、あの奥さんと一緒で、あの仕事をしてるのか?」と訊ねたあの友人に「観光」は必要だろうか、どんなものになるだろうか、と考えた。