エル ELLE



公開初日に観賞。とても面白かった。世の中に他者を傷つける人間がどうしてたっているならば、へらへら笑っているのをやめてまず自分はつきあいを断とう、度を越しているならば適切に対処しよう、そのことにより自分も含め傷つく人間を少しでも減らそう、という話である。小さいながら偉大な革命の映画と言ってもいい。


感傷的な弦楽器のテーマ曲と幾つかの音を経て、最初に映るのは猫の顔である。瞳孔の形は光量によって変わると言うけれど、猫が身近な人ならば、「二回」使われるこのカットに、撮影時には実際には何を見ていたか想像するんだろうか。私は「刑事ジョン・ブック 目撃者」のソフトに収録されていたピーター・ウィアーのオーディオコメンタリーを思い出していた。有名なあの場面、幼いルーカス・ハースに本当に「目撃」させるのは酷なのでそうはしなかったと。


複雑であると同時に行間を自由に読ませてくれる映画でもあった。例えばミシェル(イザベル・ユペール)とアンナ(アンヌ・コンシニ)の会話における「試してみたけどダメだった」とは、相手が彼女だからダメなのか、「女」だからダメなのか?私は傷つけられることがあっても(「傷つけられる」とは性的犯罪とか嫌がらせのことね)その属性に性欲を抱いてしまうという矛盾を生きる厳しさを思った。私がそうだから重ねてしまった。


(以下「ネタバレ」を含みます)


クリスマスパーティの真夜中過ぎ、ミサの模様がテレビに映っているのを空恐ろしく感じたものだけど、思えば食卓を囲む中に「嘘」の介在しないカップルは皆無だった。映画の最後にミシェルと観客に明かされる別の悪のことを考えると余計に怖ろしい。その内誰の目にも明らかである…顕著な例とでもいうのがミシェルの息子ヴァンサンとジョシーの「赤ちゃん」であり、それを自らの心を捻じ曲げて受け入れていたヴァンサンが、最後の最後に、最悪に最悪な者の頭をかち割る。


見ている時にはミシェルが加害者に対し警察に行くことを告げるのを不自然に感じた、というか「罠」かとも思ったけれど、振り返れば彼女は「嘘をつかない」と決めて愚直なほどその通りに行動しているだけなんである(尤も先に書いた通り解釈の自由度が高い映画なので、彼女の策略あるいは予感とも取れなくはない)。そのことにより窮地に陥った彼女を、冒頭に遅れてごめんと現れる息子が「間に合っ」て助ける。母はそれまで(こんな世の中において)息子が暴力を振るいそうになると押しとどめていたが、最後の瞬間はしっかりと見届ける。警察を信用していなかった彼女が、もしかしたら最後の大きな嘘をつく相手が彼らだというのも面白い。


レイプされたと知りながら「そうは見えない」と会社までセックスしにやって来るロベール(クリスチャン・ベルケル)の性器を、ミシェルは撫でてやる。この場面は彼女の曖昧な笑顔で終わる。ユペールが演じているので「こんなふうに気にせずさらりと流せる女こそ強いのだ、自由なのだ」という表現だと誤解しそうになるけれど、これはもうそういうことはやめようという話である。この「やめる」が、「ゴミ箱を置く」→「死体になる」→「もうセックスしないとはっきり言う」と段階を経ているのも面白い。ミシェルは普通の女だから、一足飛びには出来ないのだ(私だってきっとそうだ、気持ちはよく分かる)。この映画の難しいのは、ユペールを据えたことで、つまりこのような役を演じることが出来る類の女優が演じていることで、始めから終盤近くまでは主人公が弱さも備えた普通の女性である、それが変わってゆく話であるということが見え辛くなっているというところかな。


搬送される母の手が娘を探す時(そこに「婚約者」は居ない、消えてしまったかのように)、その晩ベッドに入った女二人が笑顔で戯れる時、作中最も、あるいは唯一の安堵感を覚えていたら、これは随分と意図的に「女同士の連帯」を描く映画でもあった。ラストシーン、セックスをすることのない、暴力をふるったりふるわれたりすることもない女二人が肩を並べて墓地を去るのは、死から遠ざかることのように思われた。それはミシェルが棺に横たわる父親の耳元で囁く場面の、離れていく二つの白い横顔の図の続きのようでもあった。あそこで彼女は過去に訣別したのだ。