私はモーリーン・カーニー 正義を殺すのは誰?


モーリーン・カーニー(イザベル・ユペール)の自宅に夫ジル(グレゴリー・ガドゥボア)が戻って来るオープニングに、もし私が暴行されたと警察から連絡を受けたらパートナーはこんなに落ち着いていない、すっ飛んでくるだろうなどと違和感を覚えるが(尤も彼女は「家政婦が通報しなかったら黙ってた」と言ったものだけど同様に私も黙っていたかもしれない、それはまた別の話)、そんなことを考えるのは全くの間違いであって、私は自分と同じ属性の人については「分かる分かる」(正確には「どんなことだってありえる」)と思うがそうでない人には疑ってかかってしまう、それがだめなんだという話である。

モーリーンが性暴行を受けた事件の捜査に対する周囲の証言は様々である。どこへ行っても男ばかりとはいえ男達だって、女達も皆、同様ではないが、結果として「(「スーツの男」が牛耳る)世界に楯突くとしっぺ返しをくらう」。女だから「鎖の弱い部分とみなされて攻撃を受ける」。自作自演との供述を強要させられる最後の一押しの「あんな目に遭ったら混乱して当然だ」には個人に嘘だと思われようと思われまいと結局潰されるのだと空恐ろしくなった。取り調べ中に鏡のこちら側の男性曹長の「膣に物を入れても数時間で外に出るはずだ」に女性の補助職員が「タンポンって知ってます?」と返す場面には『別れる決心』のヨンス(キム・シニョン)を思い出した。あの彼女もこの彼女も男の中で一人であった。

被害に遭ったと証明するために被害を再現させられる場面の辛いこと、私も作中のユペールのように頭や指先をいじってしまった、刺激でもって少しでもまぎらわそうと。そうでなくても横たわるのが辛い「あの台」に座らされ「8センチの棒」を挿入された後の白衣の男の「終わりましたよ、簡単だったでしょ?」には内心、この世で一番のお前が言うなを投げつけた。自宅での場面然り、こうした「再現」を見届けジャッジするのは男ばかり。実際にはどうだったのか分からないけれど、現実を映しているという意味ではその通りだろう。

何年か後には、モーリーンは真昼間に大きな窓の前でカーテンも開け放ったまま、自分で自分を縛ることが出来るか試してみる。結論のじゃまだからと無視された疑問を世界に見せつける。それは尊厳を奪う再現の強要と異なり、むしろやらねばならないことである。更に数年後、作中最後の公判に臨むモーリーンを、スーツではなく自分達の衣装であるベストを身に付けた組合員達が笑顔で応援するのに胸が熱くなった。日本なら、「悲しい存在」とされる性暴力の被害者が笑って見送られる場面なんて映画やドラマで見られるだろうか。