サウスポー



オープニング、大音量で流れている音楽が、ビリー(ジェイク・ギレンホール)がヘッドフォンで聴いているものだと分かる、よくある演出だけど、この場合、彼の「自分本位」さを表しているようにも思えていたら、控室に入って来たモーリーン(レイチェル・マクアダムス)が、座っている彼の前に立ち自分の腰を抱かせる。先回りして、自分がやれる限りのことをする、というかしてしまう。愛していればそうしてしまうだろう。
帰宅後のベッドでの一幕も印象的で、ビリーいわく「君はいつも正しい」が「今はそんなことを言わないでくれ」。ベッドに残されたモーリーンの姿が鏡に映る。彼らは二人で「一人前」なのだと思う。


モーリーンが「退場」してからティック(フォレスト・ウィテカー)が「登場」するまでの間は気が遠くなる程つまらないけれど、これはそういう話なのだ。妻と「二人で一人前」だった男が、師について「大人」になる。「妻と気が合いそうだ」には、そりゃそうだろうと笑ってしまった。
ビリーが階段を上ってジムに入って室内の光景を目にした時、映画に風が吹いた。ティックの姿は見えないが、そこは彼が「子どもをきちんとした大人に育てる」ための場所で、その息吹があるから。「腕力じゃない、頭脳で闘うんだ」と教えられ新たなトレーニングを始める辺りで目が覚めきった。一番心躍ったのはチャリティー試合のくだりで、誰かが実際に「そこ」にいなくても闘える、大人になりかけている彼の姿に感動するのと同時に、ボクシング(あるいはボクシングのようなもの)は素質や性分ではなく、少なくとも「物語」においては、何らかの過程を経ることにより成されるのだと思った。


ビリーが娘のレイラを、どこまでも「自分が保護すべき対象」として見ているのがよかった(ただし当初はその術を知らない)。「(パパが出ている試合中継の)テレビを見ないように」とのモーリーンの言いつけに倣い、いや、これからは彼女無しでやっていかねばならないのだから「半分」倣い、最後の試合において、レイラが会場には来ず、子どもに関する専門家(現「マネーペニー」のナオミ・ハリス)と共にテレビを見守るのがいい。彼女は妻の代わりではなくまだ「子ども」なのだし(そしてこの映画はその事に重きを置いているのだし)、ビリーの方とて、その場に居ない者のために闘えるよう「成長」したのだから。
それでも娘にだってパパを守りたいという気持ちはあり、それは尊重される。風通しのいい質素な部屋でピザの箱を前に、パパの手に自分の手をそっと重ねるのに泣けてしまった。


ところで、ボクシング映画は数あれど、本作はラウンドガールを映すのに他の映画よりも多くの時間を割いているように思われた。この映画のボクシングの場面はかなり生々しかったから、あれが真の「ボクシングの中継」ってことなんだろうか。